イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「モナドには窓がない」

 
 論点:
 他者の意識の存在は、認識の主体であるわたしによって証明されるような類のものではない。
 
 
 わたしには、人間の姿をまとって語り、まなざし、行為しているあなたを目にすることはできる。しかし、わたしにそのあなたが見ている風景そのもの、意識そのものを直接に知ることは決してできない(他者の超絶)。
 
 
 厳密に言うならば、わたしには、あなたが本当に心を持った人間であり、わたしと同じように「わたしはある」を持つ誰かであるのか、それとも、魂を持たない自動人形であるのかを絶対的な確実性をもって知ることはできないのである。確かに、まず間違いなく、わたしと対話しているあなたは、あなたという役柄を演じている空洞ではないはずである。しかし、そのことに関して、わたしにはわたし自身の「わたしはある」に関するのと同じ明証が与えられることはない。
 
 
 仮に、この世界には見、聞き、考える意識を持った人間はわたしのみしか存在せず、他の人々はすべて、人間の身体だけは持っている「心を持たないロボット」であるとしてみる。言うまでもなく、この仮定自体はどこまでも自己中心主義的なものであって、度を越してしまうならば病的なものにすらなりうるだろう。しかし、重要なのは、仮にこの仮定が正しいとしても、わたしの生には一見したところ、何の変化も起きないだろうということである。わたしは他者たちの心が本当に存在していようといまいと、「他者たちは心を持っている」と想定しながら、まったく同じ人生を送ることだろう。
 
 
 
モナド 自動人形 ライプニッツ モナドには窓がない 形而上学 コギトの明証 存在の超絶
 
 
 以上のような事態を18世紀の哲学者であるライプニッツは、「モナドには窓がない」と言い表していた。わたしにとって、世界とはあくまでも「わたしに見えている」世界であって、わたしの魂における外部の欠如は形而上学的に見るならば徹底したものであることを、これ以上ないほどに的確に言い当てた表現である。
 
 
 愛するとは、他者であるあなたが存在することを望むことである。すなわち、あなたがわたしの表象や想像ではなく、あなたにおけるあなた自身であること、コギトの明証すらをも超えて存在することを望む熱情あるいは狂気である。しかし、わたしの愛が、他者であるあなたが本当に存在していようといまいと全く変わることのない性質のものであるのだとしたら、どうなのだろうか。わたしの愛がこの世界における現実であることと、夢や仮想現実であることの境界線は、どこにあると言えるのだろうか。
 
 
 「モナドには窓がない」は今日、痛いほどに、現代の人間の生を問いただすものとなりつつある。私たちの生が取り替えのきかない現実のものであるのか、それとも、自分自身の他には誰一人人間の存在しない完全な孤絶であるのかがもはやわからなくなっているからこそ、私たちは病み、もがき、苦しんでいるのではないだろうか。存在の超絶としての他者を問うとは、私たち自身を蝕むこの病のうちで、絶対的な外部性という理念がモナドの抱く形而上学的な錯覚にすぎないのか、それとも、この理念には何らかの非-明証的な根拠が存するのかどうかを問い続けることなのである。