フィクションの有益性②:
フィクションは、鑑賞者の人格形成に非常に大きな役割を果たしうる。
筆者自身の例で言えば、筆者は十代の頃に読んださまざまなマンガから、極めて多くのことを学んだように思います。その中から数例を、ここで思いつくままに挙げてみることにします。
『ガラスの仮面』(炎のような情熱)。『寄生獣』(愛と生命)。『ハンター×ハンター』(速さを恐れるな)。『逆境ナイン』(生きるにあたって必要な愚かさというものが、存在する)。『ヘルタースケルター』(痛みとは無縁な場所で生きる人間には、なることなかれ)。
たぶん僕は、昔と同じようにマンガに夢中になることは、もうあんまりないのではないかと思う。『ヒストリエ』の結末がどうなるかとかは、めっちゃ気になるけど。
しかし、今の僕の生き方とか感じ方とかは、あの頃に読みふけってたマンガ家たちが与えてくれた衝撃なしには、考えられないであろう。僕自身のものの見方とかは、あくまでも僕にとって大事なものにすぎないことは確かだけど、少なくとも僕にとっては大事なものだ。
彼らは僕に言ったのだ。君は生きてるんだろう。だったら何かに喜んで、何かに怒れ。何を見ても何も感じない人間には、絶対になるな。生きるっていうのはすごく大変で、苦しくて、しかしすばらしいものだ。人間という存在は自分が感じていることを、赤の他人に伝えようとせずにはいられないものだ……。
昔はとにかく作品そのものの方に夢中で作者自身のことはあまり考えていませんでしたが(マンガ家の多くは自身の作品に対して、概して寡黙である)、今では、あの頃に読みふけっていた作品を生み出した人たちが何を考え、何を伝えたいと思っていたのかが、とても気になります。彼らはコマとコマの間を通して、一体何を読者に伝えようとしていたのでしょうか。
読んだことない人には言われても困るであろうが、たとえば『ロトの紋章』とか、めっちゃいいマンガなのである。いまページをめくってみると、少年たちに何か伝えようという情熱をめっちゃ感じるのである。僕にもし子供がいたとしたら、さりげなく本棚に置いといて、ぜひ読ませたいのである。
フィクションってひょっとすると、本質的に青少年向けのものなのではないか。いや、『カラマーゾフの兄弟』とか『失われた時を求めて』とか、そういう世界文学の傑作も大事なのは間違いないのではあるが、今の日本で十代の頃に多くの人が本気で読むのは、やはりマンガであろう。この点、少年マンガとか少女マンガとかの作者たちが果たす役割というのは、やはり非常に大きいのであろうなあ……。
若者に何かを伝えたいというのは、多くの場合、相当にお節介で迷惑な願望にすぎないかもしれませんが、おそらくはソクラテスもプラトンも、この情熱に突き動かされながら生きた部分が大きいのではないかと思われます。筆者の哲学の道行きも先人たちの例に漏れず、この願望によってこの後にもあちこちに引きずり回されることになるのではないかと予想されます(「ただし、まずはおのれ自身を正さねばならぬ」)。