イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

わたしが死んだ時、世界は

 
 論点をさらに掘り下げるために、一つの問いをここで提起しておくことにします。
 
 
 問い: わたしが死んだ後にも、世界はそのまま続くのだろうか。
 
 
 常識的に言えば答えは分かりきっており、たとえわたしが死んだとしても、世界はそのまま続くに決まっているという答え以外の答えは存在しないかもしれません。しかし、突き詰めて考えてみると、この問いには、興味深い論点がはらまれていることが次第にわかってきます。
 
 
 今のわたしにとっては、さまざまな存在者が存在し、世界もまた存在していることは当たり前の事実になっている。しかし、このことも改めて振り返ってみるならば、わたしの意識がこれまで存続してきた中で、そのように示され続けてきたということではなかったか。
 
 
 わたしには、わたしの意識によって感じられ、想像され、考えられたもの以外には、何も示されていないのである。存在するとは、わたしにとって、知覚されることと同義であると言わざるをえないのではないだろうか。
 
 
 そうであるとするならば、わたしの死はある意味で、世界そのものが消滅することをも意味するのではないのか。もしも、わたしが死んだ後にも世界が存続し続けるのであるとしても、わたしには、そのことをどうやって知ることができるというのだろう……。
 
 
 
わたし 死 世界 主体 存在
 
 
 
 このような問いかけに対しても、ほとんどの人は「それでも、わたしの死後も世界はそのまま続くのではないかと思う」と答えることでしょうし、筆者もまた、そのように考える人間の一人です。しかし、このような問いの主体を「わたし」ではなく「わたしたち」に取り替えてみる際には、問題は少し混迷の度合いを増してくるかもしれません。
 
 
 人類がこの地球から消滅し、その他のあらゆる生物もことごとく死に絶えたとしてみる。その時、この宇宙はなおも存続し続けているということになるのだろうか。誰にも見られず、何ものにも感覚されることのない事物や世界が存在しているとは、一体どのようなことなのだろう……。
 
 
 このような問いに十全な仕方で答えるためには、「わたしとは何か」という問いの範囲を大きく踏み越えて、「存在するとはどのようなことか」と問わねばならないことでしょう。
 
 
 今回の探求においては、その問いに答えることはとりあえず後回しにすることとして、目下のところは「わたしの死」に関する先ほどの問いに答えるという仕方で探求を進めることにしたいと思いますが、ここでもまたこれまでの探求においてと同様、「存在するということそれ自体」が問題になっていることには注意しておきたいところです。筆者には、哲学という営みは、究極のところではいつでもこの「存在の問い」なるものに突き当たらざるをえないように定められているように思われます。