イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

他者の「存在」の捉えがたさについて

 
 これまで考えてきたことを踏まえて、以前に指摘した論点を、より根源的な視点から論じ直してみることとしたい。
 
 
 論点:
 他者であるあなたの意識は、認識の主体であるわたしの意識を超えたところに「存在する」。
 
 
 他者であるあなたは、存在している。そして、この存在、あなたという人間が存在しているというこの事実は、わたしがそれを意識しているかどうかには関わりなく、事実であり続けるのではないか。
 
 
 ある意味ではこれほど自明なこともないし、日常的態度における人間は、このことを折に触れて十分に意識していると言っていいだろう。しかし、人間が少しでも観念的に生きはじめるとなると、彼あるいは彼女は、その途端に独我論者として思考するようになってゆく。そして、半ば意識的に、もう半分は無意識的に行われてゆくこの変容のただ中で、人間は不可避的に他者の他者性を見失うのである。
 
 
 この観点からすると、デカルト以来の近代哲学の伝統は、いわばこの変容の過程を知的に厳密なものにしてゆくものであったと言えるのではないか。
 
 
 確かに、「われ思う」の絶対確実性に比べるならば、他者にも他者の「われ思う」が存在するという事実の方はそのような確実性を欠いている、ように見える。わたしの目の前にいるあなたが、心を持っているように見えて、本当は心を持たない自動人形のごときものであるという可能性は、少なくとも論理的には排除することができない。これに対して、そのように疑い、考えているわたしが存在しているという事実の方は、わたしが今この瞬間に現に疑い、「現在進行形で」考えているという限りにおいては、どのようにしても疑いえないことである(デカルトがこの論点の重要性に気づき、それを明瞭な表現のもとにもたらしたことの価値を否定するものは、哲学者のうちにはほとんど誰も存在しないものと思われる)。
 
 
 
デカルト 近代哲学 他我問題 フィクション 存在の超絶
 
 
 
 しかし、その一方で、わたしは本当は「知っている」のではないだろうか。疑うならばいくらでも疑うことができようとも、他者であるあなたの意識は依然として、事実として存在していると言わざるをえないのではないか。あなたは今、わたしの目の前で何かを見、聞き、感じている。あるいは、あなたは今、この瞬間に、わたしの目の前にはいなくとも、この世界のどこかで目覚めている、あるいは、眠りのうちでまどろんでいるはずなのではないか。
 
 
 常識の次元では誰もこのことを否定しないものと思われるけれども、驚くべきは、この根源的な自明性に哲学的な裏付けを与えようとするやいなや、私たちはその途端に手がかりを見失うという事実の方である。「他我問題」、すなわち、他者の意識が存在することをどのようにして知りうるかという問題を哲学の問題として立てうるということ自体が、そもそもはこの事実に端を発することなのであって、哲学が現象学である限りは(そして、知としての誠実性を出来うるかぎり保とうとするならば、いかなる哲学も、少なくとも何らかの意味において現象学たらざるをえないのだが)、他者の問題は「後から」、「証明されるべきものとして」立てられざるをえないのである。
 
 
 しかし、このような困惑が存在するということは果たして、哲学の営みについてのみ言えることなのだろうか。「この現実そのものが、一つの仮想世界であったとしたら」という仮定のもとに作られている数限りないフィクションに当たり前のように触れている現代の私たちは、誰もが少なくとも幾分かは無意識的な独我論者として生き始めてしまっているのではないか。「存在の超絶」としての他者を問うとは、私たちのうちでそれと気づかれることなく絶えず働き、私たちの生を根深いところで変容させているこの動向を注視しつつ、私たち自身の実存のあり方を、形而上学と倫理とが交差する地点において問い直すことを意味するのでなければならない。