イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現実性の概念について

 
 論点:
 「この人間」の与えにおける根源的事実性は、現実性とも言い換え可能な表現である。
 
 
 そうなのである。「わたしは他の誰でもない、『この人間』である。」そうなのよ。何言っても、全部捨てたくなって絶望しても、結局「このわたし」でやってくしかないのであるよ。
 
 
 「わたしは『この人間』である。」反出生主義の場合とかは、この現実を受け入れることも不可能性になってしまっているわけである。そして、そういうことになるからには、生きることの苦しみも大変なものになってしまっていることが予想されるのである。
 
 
 しかし、結局のところ人間は、自分自身の運命からは逃れられないのではあるまいか。
 
 
 論点:
 人間はたとえ何があろうとも、命がある限りは生き続けねばならない。
 
 
 生きねば、なのである。生きたい、ではなく、生きねば、である。この「ねば」がどこから来るものであるかはわからないまま、苦しむ人間はただこの「生きねば」の声に従って生き続けなければならないのである。
 
 
 自殺は、「生きねば」に対する最終的な拒否になりうるのであろうか。この問いについては、いずれ機会を改めてじっくり検討する必要があると思われるが、今はとりあえず「自殺する人も、それが望ましいことであると主張しながら自殺するわけではないのではないか」という論点を提示しておくこととしたい。
 
 
 本当に辛い時って、死ぬしかないみたいに思うことがある。いち個人としては、僕はまだそういう時の苦しみの深さを知っているとはとても言い難いが、哲学者としては、とりあえずこの「生きねば」の「ねば」の根拠について考え続けねばなるまい。
 
 
 
根源的事実性 反出生主義  自殺 絶対確実性 哲学
 
 
 
 先に進む前に、哲学的な意味でテクニカルな観点から論点を補足しておくと、ここでの議論からは、現実性という様相を軽視することは決してできないという教訓が導かれることになるだろう。
 
 
 絶対確実性という表現をもって特徴づけられる出来事である、思考するわたしの与えについては、それがある種の「重荷」となることは原理的に言ってありえないのではないかと思われる。わたしなるもの存在することそれ自体は、悪ではありえないはずだ。この点から言うと、「生きねば」の切迫性もまた、逆説的かつ悲痛な仕方でではあれ、「わたしが存在すること」の善性を告げ知らせているように思われるのである。
 
 
 苦しみは、現実性とともに始まる。「あの人間」でも他のどの人間でもなく、反駁しがたい惨めさを背負わされた「この人間」こそがわたしであるということ。現実性なるもののうちには、思惟のうちにしか存在しない可能性のうちには決してない、取り消し不可能な深刻さと重みがあると言えるのではないか。
 
 
 話が色んなところに飛んでしまっている気もするが、哲学においてはおそらく、実存の苦しみに向き合う真摯さと、概念の彫琢に注がれる努力とが共存していなければならぬ。その両方が中途半端なものになってしまうことを恐れつつ、しかし、知性と意志の両者によって闘い続ける必要があることを認識しつつ、さらに地味に考え続けてみることしたい。