問題提起:
哲学徒が必要としているのは単なる友ではなく、魂の友なのではないだろうか。
ものの見方が異なる友人を持つことは、確かに人生に豊かな彩りを与えてくれます。しかし、親友、あるいは人生そのものを共有できるような、魂の友とも呼べる存在となると、少なくとも理念的には、いかなる一点においても全く異なるところのない、魂の完全な一致を目指さないわけにはゆかないのではないか。
物事の自然な姿は究極にあるというアリストテレス的な視点は、友情という目下の主題についても無益なものではないように思われます。友情なるものの本質を見てとることができるのは、数多くの友人たちとの関係ではなく、一人の魂の友との関係を考えてみることによってなのではないだろうか。
魂の友ともいえるほどの存在となると、果たして人生でそんな友に出会えるのかどうかは心もとないですが、多くの人が、親友と呼べるような友を生涯のうちに何人かは持つことになります。
そして、そうした親友との間には、異なる価値観を持つもの同士のあいだの親しい交流というよりも、同じ魂を持つもの同士のあいだで起こる、人生そのものの共有とも呼べるような何かが存在しています。自分以外の誰かと人生そのものを分かち合えるというのは、生きている中でも最も喜ばしいことの一つなのではないかと思われます。
心の中で日々思っていること、生活してゆく中で考えた種々雑多なものごとを分かち合える友を持たないとしたら、その人の人生が幸福なものになることはおそらくは不可能でしょう。自分を触発せずにはおかなかった本や、聴いて心が動かされた音楽、また、日々の流れの中で起こるさまざまな出来事は、それらを誰かと分かち合いたいという気持ちを自然に引き起こします。
ただし、自分自身を何も気にせずにさらけ出すことのできる相手というのは、そう多くありません。哲学徒ともなると、そもそも哲学という営みに関心を持っている人の数自体が大変に少ないので、友人を見つけることは至難の業なのではないかとも思えます。
しかし、人間というのは似た者同士の間で、引力にも似た親和力によって自然と引き合わされずにはいないものなので、出会いというのは、望みを捨てるには及ばないといった程度には起こりえます。求めるのをやめてしまうとその機会すらも得られなくなってしまうので、何はなくとも、まずは求めつづけることが必要なのではないかと思われます。