イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

本を勧める

 
 具体例:
 誰かに本を勧めるというのは、入念な注意を要する行為である。
 
 
 これが本ではなく食べ物や飲み物であるならば、それほどの注意は要しません。
 
 
 たとえば、筆者は最近、ナチュラルローソンで売っている「あんこギッフェリ」なるパンを食べてみました。これは、簡単に言うならば中にあんこが入っているクロワッサンなのですが、パン生地の食感やあんことの相性といい、味と値段との釣り合いの良さといい、少なくとも一度は食べてみても損はしない一品なのではないかと思われます。
 
 
 したがって、筆者としても、読者諸賢にこのパンの購入を勧めることには何のためらいも感じません。しかし、これがたとえば何かの本を勧めるということとなると、事は途端に複雑になってきます。
 
 
 二十世紀の文芸批評家ならばおそらくは同意してもらえたのでないかと思われますが、サミュエル・ベケットの『名づけえぬもの』は、これまでに人類が生み出した文学作品の中でも最高のものの一つです。
 
 
 しかし、その内容と文体があまりにもマニアックかつハードコアであるために、この作品を誰かに勧めることはなかなかできません。「文学が好きすぎて、とにかく文学の最高峰が読みたい」というような人には勧めても問題はないかもしれませんが、その場合であっても、その人が満足を得られるかどうかの保証は致しかねると言わざるをえません。
 
 
 
 ナチュラルローソン あんこギッフェリ サミュエル・ベケット 名づけえぬもの ハム太郎とっとこうた
 
 
 
 ある意味では本よりもさらに難しいのが、音楽を勧める場合です。音楽の場合には反応が生理的な次元を含みこむので、好き嫌いの振幅が非常に激しく、また、たとえ数分程度の曲であっても、そこから美的満足を喜びを引き出すためには何回も繰り返し聴かなければならないというケースがほとんどだからです。
 
 
 したがって、これがたとえば作品としての完成度と即効性を兼ね備えた『ハム太郎とっとこうた』ほどの名曲であるならば万人に勧めることも十分に可能ですが、その他の場合には、誰かに音楽を勧めるというのは控えておいたほうが無難であることの方が多いのではないかと思われます。たとえ何かの曲が好きすぎて、他の人にも聴いてもらいたくて仕方がないとしても、勧める相手の選択には慎重に慎重を期すべきであるというのは確かでしょう。
 
 
 話が広がりすぎてしまいましたが、誰かに何かを勧めることが細心の注意を要する行為であるというのは、以上の考察からもある程度は示されたのではないかと思います。すでに紙幅も尽きてしまいましたが、もう一つの具体例を挙げたのちに、ここから他者問題について何をいうことができるのかを検討してみることにしましょう。