イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

大衆という、今や古めかしいものとなってしまった言葉について

 
 今回の記事で考えてみたいのは、「大衆」という、最近ではもはや昔ほどには使われなくなってしまった言葉についてなのである。たとえば、「大衆文化」みたいな言い方は、今日ではもはやほとんど使われなくなっているのではないだろうか。
 
 
「……ですね。」
 
 
日本語におけるこの変化には今さらではあるけれど、改めて考えてみると感慨深くなくもない歴史的背景があって、今日ではもはや人間といえば「大衆」しかいないし、文化といえばほとんど「大衆文化」しかなくなってしまったという事情がある。何から何まですべてが大衆のものであり、人間には大衆的人間しかいないのであれば、もはやわざわざ「大衆」と呼ぶ必要すらもなくなってしまった、というわけである。
 
 
今から思うと、昔の人たちがたとえば「大衆文化」って言ってたのって、「大衆文化」とは何か別なものに対して、それとの対比で「大衆文化」って言ってたわけである。純文学に対しての漫画とか、クラシック音楽に対してのポップ・ミュージックとか。
 
 
しかし、クラシック音楽は確かにまだ生き残ってるけど、今日ではわざわざ「ポップ・ミュージック」なんていう人はほとんどいないし、純文学なんていうのは、ほとんど化石のような存在と化してしまった。トクヴィルのような人が今日のこの状況を見たら、恐らくは発狂するか、あるいは極度の鬱に落ち込むかするのかもしれないが、当のわれわれ自身は今日も元気に(?)ななチキやファミチキを食べ、アマゾンプライムで映画を鑑賞し、ユーチューブでロックやらヒップホップやらエレクトロニカやらを聴きまくってるわけである。「大衆」という言葉はほぼ死んだけど、その意味では、世は「大衆の時代」の真っ盛りであると言えなくもなさそうである。
 
 
 
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さて、わざわざ大衆なんて言わなくても、昔の時代においては大衆と呼ばれていた人間しかいなくなってしまった現代において、思うに一番やってしまうとまずいこととは、大衆の大衆性を批判するという、まさにそのことなのではあるまいか。
 
 
「……間違いなく、ガソリンをまいたような勢いで燃えるでしょうね。」
 
 
ハイデッガーとかオルテガとか、そういう歴史的な人物だったらまだ許されるでもあろうが、生きている哲学者のうちの誰かがニーチェ風の大衆ディスをやらかしてしまったとしたら、その人のSNS上の生命はもはや風前の灯であろう。いま生きている人でいうと、アガンベン先生とかは『ホモ・サケル』の序文で現代人のスペクタクル的な生が「完全な無意味さ」にしか向かっていないと言い切っているかなりの強者ではあるが、この場合には、めちゃんこ難しい本の文字の羅列の中にこっそりディスを紛れ込ませるというしたたかな手口(?)を用いているので、お咎めを受けずに済んでいるということなのかもしれぬ。
 
 
ともあれ、本題に戻ると、現代という時代が、今さら大衆の時代と呼ぶ必要すらもないというくらいに大衆の時代としての様相を呈しているということは、ひるがえって、哲学という営みのあり方そのものにも変容を引き起こさずにはいないのではないかと思われる。ここのところ、マルチチュードと哲学の関係について改めて問い直しているゆえんであるが、大衆の大衆性を不当に引き下げるでもなく、さりとて媚びるでもない思考のあり方について、さらに掘り下げて考えてみることにしたい。