イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真なる命題の集合

 
 論点:
 哲学が真理について語ることができるのは、「真理とは、真なる命題の集合である」ということに尽きてしまうのか。
 
 
 問題を整理してみる。われわれが作ることのできる命題は無数にあるけれど、その膨大な命題群の一部は真である、つまり、世界の実情に合致している。たとえば、「philo1985は人間である」とか、「現在の日本は大統領制を採用していない」とか。
 
 
 こういう「真なる命題」の数はこれまた無数ではあるけれども、少なくとも権利上はリストアップできなくはなさそうである。こうした「真なる命題」の集合はたとえば、「現在の地球には宇宙人が無数に飛来している」のようなあからさまに偽な命題に比べれば、より真理であると言うこともできるであろう(いやphiloさん、気づかれてないけどヤツらは実は地球にやって来てるんですよ、早く真理に気づいてくださいという主張は、今は置く)。
 
 
 ここには大まかに言って、「真なる命題=普通に言えば正しいと思われる常識的な言明」がずらりと並ぶことになるが、これに数学や自然科学の諸命題も加えることができるかもしれない。数学や自然科学の命題には、常識に合致しているものもあれば合致していないものもありそうだが、とにかくn次方程式とか素粒子とかDNAとか、あるいはケルビン効果とかシス・トランス異性体とか、そういう文系的には頭痛を引き起こすこと必至なさまざまなるものたちに関する無数の命題も、上記の「真なる命題の集合」に付け加えることができるであろう。
 
 
 
真なる命題 宇宙人 DNA ケルビン効果 シス・トランス異性体 人間 哲学 数学者 自然科学者
 
 
 さて、こうして出来上がった「真なる命題の集合」こそが真理であるとしよう。そして、人間が語ることのできる真理とは、これらの命題以外には全くないとしてみよう。そうなると、哲学をやっていない人には「まあ、そういう考え方もあるでしょうね」とか「よくわかんないけどまあいいや」とか、あるいは「あなたは私に一体何の恨みがあって、そんな面白くもない話をするのか」とか、まあそういった類の反応が返ってくるというくらいでスルーしてもらえそうであるが、われわれ哲学者としては少なからず、いや、かなり困ったことになりかねないのである。
 
 
 なぜと言って、仮に人間の語ることのできる真理が上記の「真なる命題の集合」だけで尽きているとするなら、哲学の語ることのできる真理とは、諸命題の明晰化とか命題の身分についての補助的考察とか、そういう一部の「慎ましい」仕事を除けば、もう文字通り何もなくなってしまうからである。
 
 
 数学者たちや自然科学者たちは真なる命題を発見してゆくという、いわば輝かしい務めを負っているからいいけれど、哲学者にできることはいわばそれを追認するくらいのことでしかなく、要するに、回ってきた書類にハンコを押すみたいな仕事しか残っていないのではないかということになる。こうした見方からすると、哲学者は知的世界の中の窓際族でしかないんではないかという自虐的な哲学観も出てきそうであるが、次回以降もこの議論の帰結を追ってみることにしたい。