イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

信じることの問題圏へ

 
 考察を続けよう。
 
 
 論点:
 聞くという行為は、語っている相手の語ることを信じるという契機によって可能になるのではないだろうか。
 
 
 1月の考察においては、聞くことは語ることに対して事実的にも原理的にも先行していること、また、超絶に関わる人間の本来性は聞くことの取り戻しとして遂行されることが示された。おそらく、この聞くという行為のうちにはまだ、哲学が通り過ぎてはならない問題圏が手つかずのまま存在している。私たちとしては、この行為が何によって成り立っているのかを、さらに突き詰めて問うてゆくこととしたい。
 
 
 日常生活の場面から考察を開始することにしよう。私たちには、自分の方から耳を傾けたいと思う相手の話しかほとんど頭に入ってこないというのは、私たちがふだん経験しているところである。
 
 
 私たちは、自分が興味を持っている相手であれば、自分の方からでも出かけていって、その人の話を聞きたいと思う。逆に、誰から自分が興味を持っていない話題を振られるとなると、たとえ親しい相手が話している時であっても、なかなか頭には入ってきにくい。
 
 
 このように、私たちはある話題や相手については聞くことを強く意志するが、別の場合にはそうではない。簡潔に言うならば、私たちは興味を持っているならば聞くが、持っていないならば聞かないのである。それでは、「興味を持っている」とはどのようなことか。私たちが相手の話に「興味を持って」聞くとき、私たちは何を聞けると期待しながら相手の話に耳を傾けているのだろうか。
 
 
 
 哲学 真理
 
 
 
 ここで問題になっているのは哲学的考察なので、日常生活の場面から哲学の言葉遣いの方へと一足跳びに移ってしまうことを恐れず、先に進むことにしよう。
 
 
 論点:
 人間が相手の語りに興味を持って聞くときには、彼あるいは彼女は、その相手から何らかの真理を聞けることを期待しているのである。
 
 
 「真理」というと大げさなようにも聞こえるが、要するに「自分自身にとって重要だと思えるような何らかの話や情報」というイデーを突き詰めてゆくと哲学的にはこの表現に行き当たる、というだけのことである。哲学の考察は日常生活のどんなささいな物事にも及ぶものでなければならないし、逆に、日常生活のどんなささいな物事であっても、哲学上の大問題に行き当たらないものはないと言えるであろう。
 
 
 真理という問題圏に関して言うならば、私たち人間が言葉を語る存在である以上、そこには真理の契機が必ず関わってこざるをえない。なぜならば、言葉を語るとは何らかの意味で真理を語ることに、あるいはその派生態として、真理を語らないことに他ならないのであるから。それでは、私たちがある話を「興味を持って」聞きたいと思い、他の話には「興味を持てずに」聞こうとはしないとは、私たち自身が真理とのどのような関係を持っていることに基づいて起こることなのだろうか。私たちは、自分たち自身の生の具体的な場面に定位しつつ考察を進めていって、最終的には聞く行為の根底にある「信じる」という契機の根幹にまでたどり着くことを目指すこととしたい。