イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真理の超絶

 
 論点:
 真理は、たとえ人間によって発見されることがなくとも真理であり続ける。
 
 
 ハイデッガーの『存在と時間』においては、「人間は真理を発見することができる」から「真理とは、人間が発見することである」へのラディカルな移行を見て取ることができる。筆者はもちろん、前者のモメントの根源的重要性を否定するわけではないけれども、後者への移行を是とすることはできないように思う。
 
 
 「覆いをとって発見すること」としての真理観はアリストテレス以来の「ものと知性との一致」という真理観とは異なるものであると、ハイデッガーは考えた。しかし、「真理とは、人間が真なるものごとを知るということである」という見方は「あるものをあると言い、あらぬものをあらぬと言うのが真である」とアリストテレスが書きつけて以来、哲学の歴史における伝統的な真理観であり続けてきたのであって、この見方からすればハイデッガーの開示性としての真理の概念も、重要な論点を明るみにもたらしたことは確かであるといえ、その路線に沿うものであったと言えるのではないか。
 
 
 これに対して筆者は、真理とは「覆いをとって発見すること」の外部において考えられるべきものなのではないかと主張したい。真理は、たとえ人間がそれを発見しようとしまいと、以前として真理であり続ける。その意味では、真理はいわば人間の存在を超絶しているのであって、「覆いをとって発見すること」はいわばその超絶を前提として、その超絶にもかかわらず可能となっているというのが、筆者の提出したい真理概念である。
 
 
 
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 真理の定義:
 真理とは、あるものが、それがある通りにあるという、そのことである。
 
 
 ここに超絶のモメントを加えて表現するならば、「真理とは、あるものが認識の主体であるわたしを超えて、それがある通りにあるという、そのことである」となる。いずれにせよ、真理の問題に関しては、それを少なくとも第一義的には「覆いをとって発見すること」からは切れたところで捉えておかなくてはならないであろうという論点が、この定義のうちには含意されている。
 
 
 筆者がここで提出している真理観は他のあらゆる哲学的主張と同じように全く新しいというわけではなく、中世のスコラ哲学者たちが「事物の真理」と呼んでいたものに近い。しかし、彼らは彼ら自身の前提としていた存在論的枠組みによって、また、何よりも彼らがカントによってもたらされた理性の批判の成果を知らなかったこともあって、この「事物の真理」なる観念がいかなる哲学上の重要な帰結をもたらすのかについて、十分な認識を持っていなかったように思う。
 
 
 実際、上のような真理の定義は、「ある」ということを人間からの全き超絶として捉えるという、存在についての捉え方の根本的な転換を要請している。ここに、上のような真理観を提出することも哲学的に意義のないものではないと思われるので、以下、このような見通しに沿って、この「真理の超絶」をめぐってさらに論点を掘り下げてみることにしたい。