イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

可能存在と本来的実存

 
 「理解」について最も重要な論点とは、この契機が可能存在という、人間の根源的なあり方を指し示している点である。
 
 
 「現存在とは、なにかをなしうることをさらについでに所有しているような、目のまえにあるものではない。現存在は第一次的に、可能存在である。現存在とはそのつどじぶんがそれでありうるものであり、じぶんの可能性がそれであるとおりのものにほかならない。」(『存在と時間』第31節)
 
 
 階段を上り下りする、ドアを開ける、手に取ったリモコンを操作する、等々。人間のとる行動はそのつど、自らがあらかじめ持っている存在可能を実現するところに成立する。
 
 
 だからこそ、存在可能とは人間にとって「ついで」のもの、単なる付け加えなどでは全くなくて、むしろ、人間を人間たらしめている根源の構造に関わるものに他ならないのである。人間とは、可能存在である。私たちの生は、その一刻一刻に至るまでが、可能性に関わり、可能性を生きること以外の何物でもないのだ。
 
 
 このことは平均的な日常性の次元を超えて、本来性、すなわちいわゆる「人生の選択」に関わる次元に足を踏み入れる際には、決定的に重要な論点になってくる。生きることの根源にあるのは「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」なのであって、究極的には本来的なおのれ自身として生きるか、生きないかという二者択一である。人生の問題、あるいは実存の問題とはかくして、人間の、可能性に関わる存在としての側面を際立たせずにはおかないものであると言えそうである。
 
 
 このようにして、可能存在を生きるあり方としての「理解」は、『存在と時間』の議論はこの契機を抜きにしたら全く成り立たないというくらいに、この本の思考の中核をなすものであると言える。おそらくハイデッガーは、能力に関するアリストテレスの仕事や、「実存」の偉大な冒険者であったキルケゴールの探求などから大いに学びつつ、この契機を自らの前期哲学の鍵概念として練り上げていったのであろう。後に出てくる「死への先駆」や「先駆的決意性」といったパワーワード(cf.これらの名称から醸し出される異様な雰囲気からして、ハイデッガーが実存的に見るならばどれほど「ヤバい奴」であるかは一目瞭然というものであろう)はみな、この「理解」との結びつきなしには十全な仕方で解明することのできないものであることは間違いない。
 
 
 
キルケゴール 理解 現存在 存在と時間 可能存在 二者択一 可能性 アリストテレス 実存 死への先駆 先駆的決意性 ハイデッガー 不安
 
 
 
 人間とは、可能存在である。このテーゼを受け止め、納得してゆけばゆくほど、人間についての見方が深いところから変化してくる。
 
 
 私たちはふだん人間のことを、単なる事物のように捉えている。すなわち、あれこれの性質をもっているとか、ああいう時にはこうするのが普通だとか、人間以外の事物と同じように、見る側にとって把握可能なものにしようと試みているのである。こういう見方は、可能存在としての人間のあり方を、多かれ少なかれ現実性のうちに引きとどめてしまおうとするものであることは否めない。
 
 
 ハイデッガーによる「理解」の概念はしかし、人間存在をそれよりもはるかにダイナミックな仕方で捉えようとする。実存する存在者としての人間は、自らの可能性でみなぎっており、ほとんどその可能性がもたらす不安のうちで、崩れ落ちそうにすらなっている。しかしながら、キルケゴールの言葉を借りるならば、正しい仕方で不安になることを学ぶ人間は、人間として最高のことを学ぶのではないか。自らの最も固有な存在可能という電撃に打たれ、迷い、苦しみもがきつつ、その苦しみのただ中で、他の誰でもない自らの運命を掴みとることこそが、その人に課されているのであってみれば……。
 
 
 非常にドラマティックというか、自分こそは人生の主人公であると心の底から確信しきっている人以外からは決して出てこないであろう人間観であることは確かである。しかし、キルケゴールハイデッガーといった人々はあくまでも哲学者なのであって、彼らは「君は、君という人生の主人公以外ではありえないのではないのか」という暑苦しい(?)問いを、人類すべてに向かって投げかけずにはいられなかった。この論点は現代哲学というにとどまらず、哲学の営みそのものという観点から見ても非常に重要であるため、次回の記事でもう少し掘り下げておくこととしたい。