前回の伏線を回収せねばならぬ。
論点:
直観は、生命そのものの奥深い働きである。
ジョージ・ルーカスがミディ・クロリアンという設定で掘り下げようとしたのは、直観(この場合はフォース)と生命との奥深い関係そのものであったように思われる。それを「あらゆる生命の体細胞と共生する極小生物」みたいにしてしまうとSWファン達としては愕然とするほかなかったのだが、おそらくこの設定は、上のような事情をなんとか物語上においても表現しようとした結果、出てきたものだったのであろう。
一方、ベルグソンの場合は哲学なので、そういう設定をこしらえる必要はなかった。エラン・ヴィタルはすべての生命のうちで働く躍動そのものであるが、これは、何かの物質的基盤や機構によってその存在が実証されるような類のものではない。エラン・ヴィタルは、物質そのものの生命としての発展を突き動かしながら、それ自身は物質「によって」伝達されるというより、むしろ物質「において」伝達されてゆくというわけなのである。
こうした考え方は、生命という現象を捉える上で非常に重要な視点を提供しているのではないかと思う。カントも『判断力批判』で指摘している論点ではあるが、生命現象って究極のところでは、実証できるものと実証できないものの接点において捉えるほかないのではなかろうか。もちろん、生命科学はそういう哲学的考察からは独立して発展してゆくこともできるし、実際にもそうなっているので、哲学的考察は多くの人の目からすると地味で、なおかつ若干(かなり?)うさんくさいものに映らざるをえないのではあろうが……。
というわけで、哲学者が生命科学の助けを借りつつ、もしも生命現象そのものを解き明かすという課題に取り組むとするならば、マスター・カントやマスター・ベルグソンの場合のように、うさんくさく見えないように入念な準備と議論を怠らないようにするというのでなければならぬであろう。SWと絡めながら「生命とフォース」みたいな話に持って行くのは、戦略上大変に甘いというほかない。
しかし哲学には、厳密かつ正確に詰めてゆくというやり方もあれば、時にはズブズブかつスキだらけな感じであえて突っ込んでゆくというやり方もある。
いわば、オンボロのミレニアム・ファルコンでエネルギー完全充填済みのデス・スターに突っ込んでゆくようなものであるが、本性上、どこかうさんくさいと受け取られざるをえない主題の場合には、そういうやり方で軽く触れるに留めておくという道もなくはないのではなかろうか。プラトンの「神話(ミュトス)」の方法なんかはそういう行き方の典型なのではないかと思われるが、ともあれ、本題の死というテーマの方に戻りつつ、直観をめぐる脱線を次回で締めくくることにしたい。