論点:
われわれ人間は、無ではなく存在の側に賭けることしかできないのではあるまいか。
たとえ今日死ぬとしても、そして、たとえ仮に人間は死んだら無に帰する(注:繰り返しにはなるが、この想定は、筆者自身の信ずるところではないけれども)のであるとしても、われわれは、最後の思い出作りをするのをやめることはできないのではないだろうか。生きるとはどこまでも、無ではなく存在の側に立つことなのではなかろうか。
ここ数年、自分自身の哲学の核が定まりはじめてからは、特にそう思うようになってきた。哲学の問いの究極とは、おそらくは何か次のようなものなのではあるまいか。
究極の問い:
あなたは〈存在〉を望むか、それとも、〈無〉を望むか?
たとえば、反出生主義のような思想は、無を望むようになっているケースなわけである。そして、この世には多分、存在よりも無を望んでいる人々が少なからずいる。
確かに、この世に苦しみなるものが存在することを考えると、存在するよりも存在しない方がベターなんではないかと考える人がいるのもうなずける(苦しみの問題)。また、より苛烈な問いかけとしては、仮に自分自身が幸せな人生を送っているとしても、虐げられたり苦しめられたりしたままこの世を去ってゆく人々がもしいるのならば、そのような人々を含む世界そのものも存在しない方がよかったことになってしまうのではないかというものもある(罪の問題)。
しかし、「人生最後の日」みたいな空想をしてみるなると、ほとんどの人々にとっては無よりも存在の方が望ましいものであるということが改めて分かるのではないだろうか。そして、筆者にはやはり、無にこうして存在の側に立つことこそが、哲学の務めなのではないかと思われてならないのである(〈存在〉の弁明としての哲学)。
わからぬ。この辺りのことは、さじ加減というかニュアンスが大事であるような気もして、哲学は、そんなに簡単に〈存在〉の弁護に回るべきではないという論点も無視できないように思われるというのも確かである。
存在の肯定、あるいは、生きることそのものの肯定は、特にそれが哲学によってなされる限りは、無責任であるという意味で「幼い」ものであってはならないだろう。罪や苦しみの存在を見つめずに言われる「生きることはすばらしい」は、そうしたものの存在を見知っている人々には、幼稚で、場合によっては暴力的な言葉としてさえ響くかもしれぬ。
しかし、哲学は最終的にはやはり、挫折を知った上でもなお「生きることはすばらしい」を擁護しなければならないのではないだろうか。哲学の務めとは、今日でも変わらず古からの命題「存在することは善である」を、大いに疑いを挟みつつも最後には根底から肯定することにあるのではないかと筆者には思われるのである。その意味では、哲学にとっての究極の二択とはやはり「存在か無か」であると言うべきなのかもしれぬ。