イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

無知を確保しつつ、無の可能性を思考する

 
 論点:
 死から無に期するという可能性を取り去ることは、少なくとも理論的な見地からは不可能である。
 
 
 もう一度整理しておくことにしよう。死んだ後にはどうなるのかという問いに対しては、大きく言って次の二つの答えの可能性があると考えられる。
 
 
 死後の可能性:
 ①無に帰する。
 ②何らかの「別の状態」へと移行する。
 
 
 ②の内実にはさまざまなものが考えられそうであるが、死んだ後には①か②のどちらかが実現されるというのは間違いないであろう。というか、論理的に言って、①でなければ②が、②でなければ①が実現されるという以外には、われわれには死後の可能性を思考しえないのである(注:この文脈において②はつまるところ、「①以外の可能性」というくらいのことを意味している)。
 
 
 おそらく重要なのは、純粋に理論的な見地からすれば、何人たりとも、①と②のいずれの可能性をも退けることはできないということである。
 
 
 死んだことのある人は(純粋な人間としては)誰もいないと思われるので、死んだ後に①が来るのか②が来るのかは未知である。人はそれぞれの信念にもとづいて「多分、こうなるんじゃね?」という予測を立てることはできるが、「絶対こうなる」と断言することはできないであろう。
 
 
 このようにして、死後についての無知を確保するということは、哲学の見地からすれば非常に重要である。筆者は、信仰者としては②の方を信じてはいるが、哲学者としてはやはり、少なくともいったんは「われわれは知らない」という事実の前に立ち止まっておく必要があるのではないかと思うのである。
 
 
 
死 哲学 スコラ哲学 信仰 無
 
 
 
 このような、哲学と信仰の間の「ずれ」が何を意味するのかということは、それはそれで無視できない問題をはらんでいるであろう(cf.ここに、スコラ哲学が「哲学」としては没落しなければならなかった必然性がある)。しかし、ここではとりあえずその問題は保留しておくこととして、記事の最初で提起した無の問題の方に戻っておくこととしたい。
 
 
 さて、無である。われわれ人間は、たとえ彼あるいは彼女がどんな信念や信仰の持ち主であったとしても、「人間は、死んだ後には無に帰してしまうのではないか」という可能性には脅かされつつ、死に迫られているのであると言わなければならない。
 
 
 このことって、生きてゆく上で非常に大切なのではないかと思うのである。繰り返しにはなってしまうが、どんな人間でも、無に帰してしまうという可能性には脅かされている。問題は、「そういうわけで、何十年後かには無に帰してしまうかもしれないとして、あなたは一体何をしますか?」ということになる。
 
 
 昔は、いつか無に帰してしまうかもしれないということが、ただただ怖くて仕方なかった。今は、死んだ後には自分は無になると信じてはいないけれども、人間が無の可能性に脅かされているという事実のうちには、とても深いものがあるのではないかという気がしているのである。これは、生きてゆく上ではとても重要な問題であるように思われるので、もう少しこの辺りの事情を掘り下げてみることとしたい。