イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

沈黙は語る

 
 問い:
 人間は、死んだら一体どうなるのか?
 
 
 哲学には、答えを出せるかどうかには関わりなく、問いを発するだけですでに意味があるというケースが往々にしてあるように思われるが、この問いはまさしく、そうしたものの一つなのではなかろうか。
 
 
 この問いは、この世ではほとんど発されることがない。その理由は簡単で、それは、その答えは誰にもわからないから、あるいは、死んだら無になるという可能性があまりにも高そうなので、いくら考えても鬱になる以外の選択肢がなさそうに思えるからであろう。
 
 
 よく考えてみると、このことは、少なくとも一考に値する事実ではある。例えばわれわれは、年金どうなるのかなみたいな話題はよく口にするけれども、死んだらどうなるかなみたいな話は、ほとんど隣人たちとは交わさない。
 
 
 書いていたら思い出したのだが、小学校の時に一度だけ、休み時間中に誰から始めたのか「ていうか俺たち、死んだらどうなるんだ?」という話題でしゃべったことがある。当然、その場にいた誰にもをその答えはわからず、最後にはおバカキャラのSくんが窓の外に向かって「うおお、俺は死なねえ!」とか叫んでその話はそれきりになったと記憶している。
 
 
 多分この話題って、めちゃくちゃタブーなわけではないけど、人間たちの間では自然と「そういうことは、考えないものです」みたいな不文律ができあがっているのではないだろうか。「いや、私は、月に何回かは必ず友人たちとこの話題になります」みたいな強者がいたとしたらもはやリスペクトという他はないが、そういう人がごく少数の例外に属することは間違いなかろう。
 
 
 
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 人類の不文律:
 人間は、「死んだらどうなるのか」というような問いについては考えないものである。
 
 
 確かに、考えても鬱になるだけならば、いっそ考えない方がいいんじゃないかというのは非常によく納得できる。かく言う筆者も、仮に「死について語る会」と「『マンダロリアン』について語る会」のどちらに出席しますかと聞かれたとしたら、まず間違いなく後者を希望せずにはいないことであろう。
 
 
 しかし、もしも前者が単なる「死について考える会」ではなく、「ピチピチギャルたちと死について考える会」であったとしたらどうであろうか。いや、筆者は今、全然意味のないことを口走っている。ごめん、マジで単に思いついちゃっただけだ。
 
 
 ともあれ、何についてでも語らずにはいられない習性を持っているはずの人間が、死についてだけはかくも従順に沈黙の掟を守り続けているという事実に目を向けることは、人間学に対して何らかの寄与を果たしうるものであるには違いない。哲学者たるもの、声に出して発される言葉のみならず、語らないという仕方で語り続けている沈黙の雄弁にも耳を傾けるというのでなければなるまい。