ここまでで出てきた結論は、次のようなものである。
問い:哲学者は死について、どのように考えるべきか?
答え:哲学者は死から目を背けることなく、天から自分に与えられた務めを果たすことに努めるべきである。
哲学を学んでいる人ならばわかるように、これはハイデッガーが『存在と時間』で提示した方向にほぼ合致するものである。死という目下の主題についても、この先人が哲学に対して行った貢献は非常に大きいのではないかと思う。
しかしわれわれは、この方向と矛盾するわけではないが、別の方向からも問題にアプローチしてみることができる。すなわちこれだ。
論点:
他者の超絶に死後のことを託すという道は人間にとって、死という出来事に対する一つの答えになりうるのではないか。
こちらの方は、レヴィナスが『全体性と無限』において示唆している方向に合致するものだ(どんなことを考えるにしろ、必ず先人はいるものである)。最近のこのブログでも、この方向に沿って考えるための下準備をしつづけてきたが、ここから本格的にこの方向で考えてみることにしよう。

他者の存在は原理的に言って、わたしのあらゆる想像を超えている。わたしにはあなたが何を感じ、何を考えているのかを、決して直接に知ることはできない。しかし、たとえそうであるとしても、わたしがあなたに何かを与えるという可能性は依然として存在するのではないだろうか。
たとえば、他者であるあなたが飢えているとする。その時、わたしがあなたにパンを渡すことは、あなたにとって恐らくは善をなすことになるはずである。
わたしには確かに、あなたの飢えが癒される、その癒しそのものを直接に感じることは許されていない。しかし、およそ癒しという出来事がこの世には存在するということもまた、まぎれもない事実であるように思われる。わたしを超絶したところで起こる癒しを目指して行為するという可能性が、人間には与えられているのではないだろうか。
旧約聖書の中で、モーセは約束の地に入る前に死ぬことを余儀なくされる。彼には、登ることを許された山の上からその地を望み見ることは許されたが、その地に入ることは決して許されなかったのである。モーセが体験したこの状況こそは、人間がなしうる善について考える際に省みるべきものなのではないか。
人間は他者に対して善を行うことができるが、自分が善をなしたことを直接に知ることは許されていないのではなかろうか。かくして、すでに前の探求で提示した「存在の超絶」というイデーに沿う形で、人間の真の幸福について考える道が示される。知ることができないものを与えること、見えないところで善をなすというこの可能性について、これから少し考えてみることにしたい。