イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「まあ、なんと言うか……。」

 
 前回の論点とも関連するが、われわれは、次の二つのモメントを区別せばならぬように思われる。
 
 
 ①死に至るまでの、種々の精神的・肉体的苦しみ。
 ②死そのもの。
 
 
 ①はつまるところ死そのものではなく、いまだ生に属している。怖いとか辛いとかいったことは、とりあえずは生きていればこそである。できる限り苦しまずにいた方が望ましいことは、言うまでもないが……。
 
 
 これに対して②こそがまさしく、正真正銘の死であり、これは正確に言えば、それが苦しみであるかどうか、あるいは無になることを意味するかどうかすらも全く不明である。死という出来事は人間にとっては大いなる謎であり、簡単に言うならば「死んでみないと分かりませんね」という側面があることは、何人にも否定しがたいのではないだろうか(信仰はどうなのかという大問題はこの論点を考える上で本来は無視できないのであるが、とりあえず今は保留しておくこととしたい。もっとも、保留していいのかどうかという問題は、これはこれで残るのであるが……)。
 
 
 死が怖いという場合、①と②とがごっちゃになっているというケースが往々にしてあるように思われる。しかし、確かにわれわれ人間の側から見ると「死は苦しみである」とかノリで言っちゃうこともあるし、まあそう言ってもめちゃくちゃ共感できるから問題ないといえばないのであるが、正確に言うならば「死は苦しみである」はおそらくは正しくなく、「死は、苦しいか苦しくないからも分からない謎の出来事である」が正しいのではあるまいか。
 
 
 
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 つまらない(?)ことを気にしているのは、哲学者の宿命ということでご容赦願いたい。概念を肉屋のように切り分けていないと落ち着かないというのは、われらの職業病のようなものなのである(”This is the Way……”)。
 
 
 それにしても、死んだら一体、どうなるのであろうか。こればかりは、自然科学がどれだけ発展しようとも、哲学者がいくら考え抜こうとも、その答えは絶対にわからない。筆者は信仰を持っているので、死後にどうなるかという問いについては聖書がかなりの部分まで教えてくれていると信じているのだが、万人に反駁しえない論証によって「死とは何であるか」を解き明かすことは、人間には決して不可能であろう(信仰は、証明するという仕方で事を行うのではない)。
 
 
 「まあ、なんと言うか、気楽に行こうぜ、なあ君。」ウラジーミル・ナボコフの晩年の小説『透明な対象』の最終部分である。(ちなみに、主人公今まさに死のうとしているところ)これって、文学者が死について語った言葉の中でも最も優れたものの一つなんではないか、ていうかやっぱりナボコフってただ者ではないなと思わされずにはいないフレーズではあるが、ともあれ、われわれの探求もさらに先へと進んでゆくこととしたい。