イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

この世に何を残せるか

 
 これまでとは話の向きが少し異なるのだが、ここから、これまでとは違う観点から死の問題にアプローチしてみることにしたい。
 
 
 論点:
 他者のために何かをするということは、たとえ自分が死ぬとしても意味のあることなのではないだろうか。
 
 
 そうなのである。われわれは、どちらにしろいつかは死んでこの世を去らなくてはいけないのである。ベーコネーターはうまいしSWは面白いけど、もはやこの世では何かを食べたり映画を見たりすることもなくなる日は、すべての人に平等にやって来るのである。ぶるぶる。
 
 
 しかしである。われわれ老いたる者(?)が死ぬその時にも、赤ちゃんは育ち、子供たちはすくすくと育ってゆくのであるよ。新しい人間たちは、われわれの後にもしっかりと生き続けてゆくであろう。
 
 
 たとえば哲学であるが、確実なのは、百年後の学生の中にもこのマニアックな営みに心を燃やし、一生をこれに捧げんとする若者たちは現れるであろうということである。いつの時代にも変わらずマイナーではあるだろうが、哲学そのものが絶滅することは決してないであろう。
 
 
 問題は、彼らに何を残せるかである。いや、彼らからしたら「別に残してくれなくてもいんすけど」といったところかもしれないのだが、しかし人間は、お節介かもしれないとはいえ次の世代に何かを残そうとせずにはいられない存在なのである。死という現象のことを考える時には、世代を継承してゆくという行為のうちには何かとても深いものがあるように、思われてならぬ。
 
 
 
 哲学 信仰 教会 神学校 ブログ
 
 
 
 最近思うんだけど、筆者はこのブログを書き始めてそろそろ五年になろうとしているのではあるんだけど、これって多分この世的には何にもならないのであろうなあと思うことが増えているんだよね。
 
 
 たださ、もう筆者の人生って哲学がなかったら、もうシャレにならんくらい何にも残んないんだよね。いや、信仰と教会の恵みはめちゃくちゃ大きいから、この人生それ自体にほとんど不満はないのであるが(しかし、「何も」と言わずに「ほとんど」と言ってしまうあたり、人間というのはまことに罪深い存在である)、神学校に行くこともないだろうし、将来のことは(人間の目から見ると)ヤバそうな気配しかしないのである。
 
 
 しかし、最近は哲学で何かやってやろうというより、哲学に何らかの形で貢献したいという気持ちの方が強くなってきたことが、自分としてはよかったのである。いや、貢献したいって言っても別に何にも貢献できないかもしれないんだけどさ、それでも、貢献したいと思えるようにしてもらえたというだけで、哲学と神学を学んでいてよかったなと。
 
 
 後半は個人的な話になってしまったが、とにかく、人間って「自分が何をしたいか」ではなくて「他者のために何ができるか」と考え始めた時に、本当の人生を生き始めるのではないかと思うのである。死の問題と絡めながら、このあたりの事情についてもう少し掘り下げてみることにしたい。