イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

力なるものの魅惑

 
 論点:
 真理は知識と防衛のために用いるべきであって、攻撃のために用いるべきではない。
 
 
 要するに一言でいえば、「ダークサイドは避けるべし」ということに尽きるのである。この点から言うと、哲学の観点からいって常にどこかで警戒し続けねばならぬのはやはり、力という概念なのではあるまいか。
 
 
 すでに前回にも触れたが、力という点で危険な方向に突っ走ってしまった先人の代表は、フリードリヒ・ニーチェであろう。
 
  
 話題を身近な(?)題材から取るならば、人間を「力への意志」として規定するというのは、なんかのRPGのラスボスとか、ブルマと結婚する前のベジータ(世代の異なる方のためにいちおう説明しておくと、彼はかの古典的名作『ドラゴンボール』における、主人公の最大のライバルである)なんかも抱いてそうな思想の方向から出てきた帰結であろう。ベジータの場合、いいお嫁さんに出会えたことと、やはり悟空という「決して超えることのできないライバルであり、密かなる憧れ」とともに戦い続けたことが、最終的に彼を正義の戦士にまで成長させた。「実は相手に対してコンプレックスを抱いているエリート中のエリートと、何も気にせずに無垢に道を追求し続ける真の天才」という組み合わせは、『ガラスの仮面』における北島マヤ姫川亜弓の二人組と合わせて、漫画史に残る永遠の「よきライバル」のイデアとも言うべきものであろう。
 
 
 話が逸れてしまったが、とにかく「力への意志」みたいな方向は非常に危険である。哲学をフツーに勉強していると、あるいは例えばwikiなんかで読んでると「ふーん、そんなもんか」でスルーしそうであるが、何気にこの先人は相当、というかめちゃくちゃ過激なことを言っているのである。例の有名な「超人」の思想なんかも、この点から言うとセフィロス(説明の省略を諒とされたい)とかダース・ヴェイダースター・ウォーズ最高)とか、マジでヤバそうな雰囲気しか漂わせていない悪役たちも賛同しかねないものであることは、記憶にとどめておいてよいのではないかと思われる。
 
 
 
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 個人的な話にはなってしまうが、筆者の哲学においては、存在と力能という概念対が一つの重要な対立軸になっている。このような対立軸を意識しておくことは、哲学が力の次元の魅惑に引っかかってしまわないためにも必要なのではないかと思われるのである。
 
 
 力とか力能って、やっぱり人間にとっては異様な魅力を発揮してしまう。「強いものこそは正義である」というテーゼは、おそらくはほとんどの人が「これってどこか間違ってるな」とうっすら直観してはいるものの、実際に力の圧倒的な現前を前にした時には、その魅力と(多かれ少なかれ潜在的な)恐怖の前に屈しないでいることは難しい。この世は圧倒的に強いものや圧倒的に美しいものに対して、いつの時代にも、ほとんど対抗する力を持っていないもののように思われるのだ。
 
 
 本当に大切なのはおそらく、力よりも善き意志を、もっと言うならば愛を求めることなのであろう。かくいう筆者自身も、挫折をくり返しまくった甲斐あって、やっと力の魅惑からは自由になりつつある気もしなくもないが、こういうものって油断してると瞬く間にぶり返してくるだろうから、これからも警戒を怠ってはならないのであろうなあ……びくびく。