イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

巨人の肩についての考察

 
 前回の論点を掘り下げるために、まずは次の区別を立ててみることとする。
 
 
 ①哲学者として、等身大の自分自身が考えていること
 ②先人たちが言ったこと
 ③真理そのもの
 
 
 ③に直接にアクセスできるならばそれに越したことがないのは、言うまでもない。しかし、すでに挙げた先人の言にもあるように「知者であるのはただ、神のみである」がゆえに、人間としては、どうやったら少しでも③に近づくことができるか、あれこれ思案せねばならないわけである(「旅する人間homo viator」としての哲学者)。
 
 
 さて、「僕は/わたしは他人の力は借りず、自分自身で考えたことしか信じない」といって①のみで真理の道を歩んでゆこうとする若者がもしもいるとすれば、彼あるいは彼女の道行きは暗澹たること闇夜のごとしと言わざるをえないであろう。彼あるいは彼女の哲学は、中二病的昏迷のただ中を永遠に漂い続けるか、あるいは悪くはないがあくまでもアマチュア人生哲学の域にとどまるクオリティにまでしか達しないか、いずれにせよ、哲学者としては非常に残念なところで終わることはまず間違いないのではないかと思われるのである。
 
 
 やはり最終的に肯定するにせよ、否定するにせよ、まずはしっかりと②を押さえておかねばよい実りは期待できないことは確かであろう。この点、一瞬だけ例外に見えなくもないのはルネ・デカルト師(17世紀最大のジェダイ)であるが、『省察』における師はただひたすらに①だけで突っ走っているように見えて、実は②を身につけた上で②のことを知らない振りをしているという、いわゆる暴れん坊将軍型の無双シーンを披露しているだけなので、師の「僕何にも知らないよ、テヘ♡」を鵜呑みにするべきではないのは言うまでもなかろう(余談にはなるが、この著作をはじめとして、この人の役者ぶりは哲学史の上でもちょっと他に例がないのではないかと思う)。
 
 
 
哲学者 中二病 ルネ・デカルト 省察 暴れん坊将軍 トマス・アクィナス スコラ哲学
 
 
 というわけで、われら哲学徒としては、どうしても①のスタイルで考えたりものを書きたいというのであれば、②を吸収し尽くした上で①だけでやってるフリをするという、デカルト先生型のえげつない辻斬りスタイルでゆくほかないと思われる。この場合、デカルト先生その人がまさしくそうしたように、「俺か、俺以外か」という超強気の二択を同時代の哲学者たちに突きつけることになるであろうが、あえてそういう成功率が非常に低そうなヤバめの賭けに出たいというのでない限りは、あくまでも謙遜の徳を保ちつつ②に忠実な学問の徒としての姿勢を崩さない方が無難であろう。
 
 
 よく用いられる言い方でいうならば、先人の力を借りてものを考えるというのは、巨人の肩に乗るようなものである。トマス・アクィナス師は、今さら取り立てて言うまでもないほどのスコラ哲学の大巨星であったが、彼の偉大さは、彼より前にものを考えた巨人たちの業績をしっかりと身につけた上でなければ達成されえなかったことであろう。この点、デカルト先生流の無双殺法も人目を引くという面では実に華やかではあるが、先人たちに対する尊敬の念を失わないという意味では、やはりトマス先生の懇切丁寧な討論方式こそは哲学の生きた見本なのではないかと思えなくもない今日この頃なのである。しかし『省察』も、シンプリシティと著述の鋭利さの極致という点ではやはり捨てがたく……。ぶつぶつ……。