論点:
師は、弟子の人生を善へと導く。
弟子としての、筆者自身の体験から考えてみる。筆者も他の哲学徒たちと同じく、哲学のマスターたちの言葉に耳を傾けることから、多大な恩恵を受け続けてきた(はず)である。
いや、ほぼ毎日のように「われは罪人なり」と嘆かねばならぬわが人生ではあるが、哲学の書物を、また、何よりも聖書を勉強してることで、ほんの少しずつではあるが倫理的には成長し続けている……と信じたいところである。二十代ごろの自分の人生を振り返ってみると、マジで罪人すぎてただ顔を伏せることしかできないのではあるが、さすがにその時よりはわずかにであってもまともな人間にはなっている、はず……。
他者の無限に対して開かれるということは、自分の限界をたえず思い、自分のものではない言葉に耳を傾け続けるということである。当たり前のことかもしれないけど、これって大事なことなのであって、こういうことがきちんとできている人って多分本当に数が少ないのではないか。レヴィナス先生の哲学を学ぶのって、人間的にも非常に大切なのではないかと思うのである。
いや、まさか自分が毎日倫理について考えるようになるとは思わなかった。倫理的に生きることからはまだまだ遠いとはいえ、哲学者として、せめて倫理について考えることだけはやめたくないもの……。
師の立場から、このことについて考えてみる。レヴィナス先生は、philo1985である筆者が先生の著作を毎日のように読み続けることになるだろうとは、予想もしていなかったことは確かである。
先生がこの世を去ったのは、1995年である。僕はその頃まだ小学生で、哲学というよりははるかに『魔法陣グルグル』の方に関心のある小さな子供であった。当然、僕はそんな人がいたなんて知らなかったし、レヴィナス先生も、極東の少年が自分の哲学を学ぶようになるとは考えていなかったであろう。
師であるということは、思わぬところに見知らぬ弟子を持つということである。練達の賢者から発された言葉は、時代と場所を超えて真摯な若者たちの魂を教化しつづける。まことに教えの言葉こそは偉大なのであって、哲学とは、自分の気の向くままに考えることであるよりははるかに、古来から教え続けられてきたことの伝達と更新なのではないか……。
師にとって、弟子とは自分の意識を超えたところで生き続ける「存在の超絶」に他ならない。師が死んだ後にも弟子は生き続け、師から伝えられた言葉を語り続けるであろう。レヴィナスが提出した「多産性」という概念は恐らくこうしたことにも関わるのであろうが、筆者も哲学の道を歩むものとしては、まずは歴代の師匠たちの言葉を粛々と語り継ぐことに徹さねばならぬのかもしれぬ。