イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

聞いてくれてありがとう

 
 論点:
 哲学とはその営みの本質からして、若者に呼びかけずにはいられないという宿命を背負っているのではあるまいか。
 
 
 ソクラテスアテナイの若者たちと対話することをこよなく愛していたという古典的事実(定番中の定番に勝るものなし)は、そのことの端的な表れである。しかし、死という目下のテーマ(話が飛びまくってはいるが、筆者は一応忘れてはいないつもりである)について考える際には、上の論点は一層切迫した意味を帯びてくると言えるのではないだろうか。
 
 
 若者よ、今さらながらのことであるとはいえ、僕も君もいつかは死ぬのだ。しかし、いつか死ぬのは僕も君もまったく変わらんとはいえ、普通に言ったら僕のほうが君よりも先に死ぬのだ。
 
 
 死ぬのとか、めっちゃ怖いのである。だけど、僕もおそらくは他の人と同じように、死ぬ前に自分が生きていたという証を何か残したいのである。ただ死にたくはなくて、僕という人間がこの時代のこの場所で生きていたという証を、何か残したいのである。
 
 
 他の人が聞いてもうっとうしいだけだとは思うけど(ごめん)、僕は自分が死んだ後も、誰かに思い出してほしいのである。そして、それが無理だとするならば、せめて他の誰かの人生に自分が生きていたという痕跡なり何なりを、残したいのである。
 
 
 この望みは、言うまでもなく自分勝手で、ある意味では不遜なものでさえあろう。しかし、人間は生まれてきたからにはみな、他の人から見てどうであるかは別にして、何らかの使命とか務めを背負っているのではないのか。僕は、何のために生まれてきたのだ。僕は自分自身のこの命を、何らか意味のあるやり方で燃やし尽くしたいのである……。
 
 
 
哲学 ソクラテス アテナイ 死 若者 聖人 ツイッター ブログ
 
 
 
 燃やし尽くしたいとはいっても、他人のために命を捨てることまでは全然できないというあたりで、僕は非常に中途半端な人間なのではあろう。聖人にはなれぬ。聖人にはなりたいけれど、自分自身の弱さと卑怯さを、振り捨てることはできぬ……。
 
 
 たぶん、本当に実りある人生って、自分のためではなくて他者のために何かをするみたいな人生なんだろうね。僕にはまだできないけど、そういうもんなんだろうなっていうところまでは深く納得したよ。そのことを学ばせてくれたという意味では、聖書という本が教えてくれた(そして、日々教えてくれている)ことは限りなく大きいと言わねばならぬ。
 
 
 若者よ(何度も呼びかけてごめん)。僕はツイッターでもブログでも、結局はただひとつのことしか言ってないのかもしれぬと最近つくづく思う。だが、ここでもう一度言わせてくれ。君は、哲学をせねばならない。
 
 
 やっても将来性がないとか、人文系の学問は冷え込む一方だよとか、そういうつまらんことは一切どうでもいいのである。こんなマニアックでニッチなブログを読んでくれている君は、もう人生を哲学に捧げるしかないのだ。こんなもん読んだってこの世でうまく生きるために有用な情報なんて、一切書いてないのだ。
 
 
 しかし、若者よ、僕は君がこんなにマニアックで日の当たってないものを読んでくれていることに、感謝せずにはいられないのだ(ひょっとしたら、君も割と日の当たってない人生を、生きているのであろうか)。ちくしょう、生きててよかったなあ。哲学だよ、君は哲学の道に進むのだ。もしも君が今、このまま哲学やってていいのかどうか悩んでいるなら、迷う必要はない。この道は最高だよ。色々勝手にしゃべってごめん、聞いてくれてありがとう。