イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

歯医者の例、あるいは、師の引き受ける労苦について

 
 論点:
 師は、弟子が望もうと望むまいと真理を伝えなければならないという、困難な務めを引き受けなければならない。
 
 
 師は本当に「真理を知っている」のか、事によると、師が間違っている場合もあるのではないかというのは、それはそれで大きな問題ではある。しかし、ここではとりあえず「師が知っている」を前提として議論を進めることを諒とされたい。
 
 
 さて、弟子がいついかなる時にも真理を知ることへの熱意に燃えているかといえば、人間の本性から言って、まずそういうことはありえないであろう。
 
 
 真理に対して人間は、いわば歯医者に行こうと言われて「いやだいやだ」と叫びまくる子供のような立場にいるのではないかと思われる。歯医者に行くことは実は子供に善をもたらす、というか、行かないと子供自身の健康すらも危ないのだが、それにも関わらず、地獄に行こうと歯医者には行くもんかというような激しい抵抗を子供が示すとしても驚くには当たらないであろう。
 
 
 そのような状況の中で、子供に歯医者に行かせるためにはどうしたらいいのか。場合によっては、ポテチやショートケーキ、あるいはスマホゲームのガチャを引かせてあげるなどのごほうびを用意することによって、子供に歯医者行きを了承させることも必要であろう。子供が、「ここでごねれば、こいつらからは少なからぬ利得を引き出せそうだ」といったような邪悪な企みを胸に秘めている場合には、必要なのはアメよりも容赦のないムチであろうが(「幼子よ、汝の高慢は汝を破滅へと導くであろう」)、ぐすんぐすんと泣いているいたいけな女児を相手にする場合には、やさしく頭をなでなでしながらプリキュアグッズを約束してやらなければなるまい(男児の場合には縄でも使って引っ張っていった後に、飴玉か、よっちゃんイカ辺りを与えておけば十分であろう)。
 
 
 
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 ともあれ、本題に戻る。真理を嫌悪する人間存在(cf.ジル・ドゥルーズ『差異と反復』第三章を参照)の一員である弟子を真理に導くためには、師は能うかぎりの知恵と知識を駆使しなければなるまい。
 
 
 最悪の場合には、弟子がダークサイドに堕ちることまでもありうるのである。師は、弟子をどこまでも愛しながらも、弟子の善性を過度に信用することなく、「可愛くて仕方のないこの子も、つまるところは私と同じ罪人にすぎない」と諦めるところは諦め尽くしながら、それでも人間を導く真理の力を信頼しつつ、教えの伝達に日々励まねばならぬのであろう。
 
 
 師であるということは、喜びよりもはるかに多くの苦労を伴うことであり、弟子以上に弟子の魂の健康に心を配り続けることを必要とする。この多大なる気苦労を引き受けてでも、一人の人間を「真の人間」(人間は、教育されることによってはじめて本当の意味での人間になるというのが、あらゆる教育を突き動かす根本理念である)にまで育て上げるという仕事を成し遂げたいと決意することのできる人だけが、教師という職業への召命を持つといえるのであろう。自分の魂の問題が解決した後には、弟子の魂の問題に涙を流し、彼あるいは彼女のために歯を食いしばっては、その成長に喜ぶというのが、師と呼ばれる人々のたどる道であるように思われるのである。