イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

師は語り続けている

 
 論点:
 障害は無数にあるけれども、それでも真理の言葉は、師から弟子へと受け継がれてゆく。
 
 
 このことは、哲学の歴史自体が証明している。哲学史とは、真理の言葉の継承でなくて一体何であろうか。教えが時代から時代へと、また、時には時代を超えて受け継がれてゆくのを見るのは、マニアックながらも、哲学を学んでいる人間にとっては激アツとしか言いようのない喜びなのである。
 
 
 伝わる時には伝わるのである!いや、ほとんどの時には何も伝わらんよ。それというのも、僕自身も含めて、人間って、他人の話なんてほとんど何にも聞いちゃいないからだ。
 
 
 「……はぁ。」
 
 
 対話してると思ってる時でも、自分がしゃべりたいことをただひたすらしゃべってるか、あるいはそれよりはましな場合でも、自分が聞きたいと思っていることを相手の言葉のうちに聞き取ってるだけなのである。いや、これは人間学的には、マジで大事な事実なのではないかと思う。人間って、マジでガチで人の話を全く聞かない存在なのではあるまいか(頽落としての他者アレルギー)。
 
 
 「……そういうものですかね。」
 
 
 少なくとも、僕はそう思うのである。今も勝手に一人でしゃべりまくっててごめん。しかし、しかしであるよ、真理の言葉は、それでも伝わる時には伝わるのではないだろうか。
 
 
 それは、本当の意味で〈他者〉が何かを語る瞬間だ。誰かが、自分を超えたところから聞く主体であるわたしに語りかける。わたしは、語っているあなたに耳を傾けなければならない。あなたは、わたしのモナド(このものにとって閉鎖性は運命であり、わたしはわたしの誕生の瞬間から、わたしの魂という牢獄に閉じ込められ続けている)からは決して出てくることのない何らかの言葉を語ろうとしているのだから。あなたが語る時、わたしが決して知ることのない一つの世界がおもむろに姿を現し、風は吹き、火が起こり、雷鳴は轟くだろう……。
 
 
 
哲学史 対話 他者アレルギー モナド 自己愛
 
 
 
 師は語る。二千年来、恐らくはそれよりもはるかに昔から、師は語り続けている。幽邃な山の奥底から湧き上がる泉のように、師の言葉は、こんこんとこの世界の片隅を流れ続けているのである。
 
 
 われわれは、その流れに耳を傾けねばならぬ。われわれの独創性とか個性とか、そういうものはこの流れを前にしては、ほとんど無にも等しい存在にすぎない。学問の徒たるもの、自分の心の中に住む自己愛は、決然として打ち砕かなければならぬのであろう。
 
 
 もとより、こういうことを書いている筆者自身が、自分自身の自己愛から逃れられていないことは否定できない。おそらく、「自己愛 Amour propre」なるものには、持つべき適切な種類のものもないわけではないということも確かではあろうが、筆者自身、この点についてはさらなる研鑽が必要であることは肝に銘じておかなくてはなるまい。
 
 
 師は語る。師は、真理の言葉を語り続けている。哲学を学ぶとは、自分で語るよりも前に、この絶えることのない教えの言葉を傾聴する姿勢を身につけるということなのであろう。とにもかくにも「聞く人間」に、教えの言葉に耳を傾ける学問の徒であるように、自分自身を戒め続けねばならぬ……。