イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

弟子が師のもとを去ることもある

 
 論点:
 師と弟子とは、最終的には異なる二つの人格であらざるをえない。
 
 
 苦々しい事実ではあるが、認めねばならない。師が弟子に対してなしうることには、ある越えがたい限界があると言わざるをえないように思われるのである。
 
 
 弟子が、ダークサイド(すなわち、〈真理〉以外のものを最高位に置く実存の様態)に闇落ちしかけているとする。もちろん師としては、弟子の魂を救いたいであろうし、そのためになしうる限りのことをするであろう。
 
 
 しかし、最後のところでは、真理にとどまり続けるか、それとも闇落ちするかを選択するのはあくまでも弟子自身の意志でしかないのである。師が何を言い、どのように弟子に働きかけようとも、弟子が最終的にはダークサイドを選択するならば、すべては水泡に帰してしまうのだ。これはまことに悲痛な瞬間ではあるが、師たるもの、そういうこともありうるとあらかじめ覚悟しておかなければならないものなのかもしれぬ。
 
 
 とある師の叫び:
 おお、わたしは失敗したのだ、お前の教育に! I have failed you,Anakin, I have failed you!
 
 
 確かに、師は失敗したのであろう。弟子の心は真理ならざるものに飲み込まれ、もう戻ってくることはない。
 
 
 しかし、師に弟子の闇落ちを止めることが果たしてできたのであろうか。本当は、闇落ちすることまでも含めて、すべては運命によって決定されていたのではないのか。ここには、自由意志と運命との間に結ばれる、もはや形而上学を越えて、ほとんど神学的な仕方でしか捉えることのできないような、ある理解しがたい関係が存在しているのではあるまいか……。
 
 
 
師 弟子 ダークサイド 真理 闇落ち 形而上学 自己責任 師弟関係 さよならだけが人生だ
 
 
 
 もちろん、師たるものは、弟子以上に弟子の学びの成就に対して責任を持つという心構えでいることが必要であることも確かである。「彼の自己責任だ」として、安易に責任を放棄してはならないことは言うまでもない。
 
 
 しかし、これって究極的には師弟関係だけではなくて、あらゆる人間関係でもそうなのではないかと思うのであるが、人間って、最後の最後のところでは孤独であるというのは否定できないのではないかと思うのだ。
 
 
 師弟関係を続けるとか、あるいは、ずっと一緒にいようねとか、俺とお前はいつまでも親友だとか、そういう関係や約束が守られ続けるためには、それぞれがそれぞれのうちで関係を続けることを選択し続けるほかない。そして、どちらかがその関係から降りてしまうことを最終的に選択した場合には、人間にはおそらく、相手のその選択を止めることはできないのである。
 
 
 「さよならだけが人生だ」とは、まことに至言である。逆を言えば、人生にはさよならしかないという苦い苦い事実を噛みしめて、それでもなお共に生き続けることを互いに決意する二人だけが、妥協なき師弟関係、愛の関係や親友の関係を築きうるのではなかろうか。弟子は、果たして最後まで真理のうちにとどまり続けることができるのか。その答えが然りであることを信じつつ、師は弟子が自分自身の道を歩んでゆくのを見守り続けるしかないように思われるのである。