イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『差異と反復』をめぐって

 
 論点:
 弟子によって越えられることが、恐らくは師の最後の仕事である。
 
 
 哲学の師はすべからく、自分自身が築き上げた哲学は、本質的には、自分一代限りのものであると覚悟しておかなければなるまい。
 
 
 未来には、予想もしていなかった何かがやって来てしまうのである!われわれは、その何ものかのための叩き台として、存分に学ばれ、検討され、最終的には乗り越えられねばならないのである。
 
 
 われわれ自身、現にそのようにして、先人たちの議論を「叩き台にして」(この表現自体、師たちに対して大いに不遜ではある)、自分たち自身の哲学を築き上げてゆく。筆者自身の例でいえば、ここ一週間くらいの筆者は、ドゥルーズ先生の『差異と反復』を読みふけっているのである。
 
 
 久しぶりに読むけど、やっぱりすばらしいよ。ていうか、傑作多きドゥルーズ先生の本の中でも、ひょっとしたらひょっとしたら一番すばらしいのではないか。『アンチ・オイディプス』とか『千のプラトー』とかはめちゃくちゃ面白いし、『哲学とは何か』には晩年の先生の気迫と静かな怒り(「コミュニケーション哲学とかマジでクソ」みたいな感じで、この本での先生は若干キレ気味である)を感じずにはいられないけど、哲学フリーク的には、やっぱりこの本のどこまでも濃厚かつディープな哲学論議のマニアックさは心にしみるのではないだろうか……。
 
 
 それはともかくとして、先生が四十代の前半(!)で書き上げたこのマスターピースを出発点にして、哲学とか哲学史について延々と考え続けるわけである。今読んでるところでいうと、先生が、持ち前の明晰さでデカルトとカントにおけるコギトの違いについて論じている箇所とか、めっちゃ参考になる。先生は、いわゆる十七世紀における「デカルト革命」よりもむしろ、デカルト哲学からカント哲学へと移行する過程で生じたコギトに対する捉え方の変容の方を、より重視しておられる。そこにかの「コペルニクス的転回」を真の差異と反復の哲学へのターニング・ポイントとして捉える、先生独自の野心的な形而上学的試みも絡んでくるわけだが、特に第二章の辺りに漂ってるすさまじい無双感(座頭市のごとく、哲学史精神分析を異様な速度で動き回りながらぶった切っている)については、先生流石っすというほかないのである。
 
 
 
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 というわけで、先生の哲学哲学史読みから受ける恩恵はハンパではないのだが(哲学界隈では、ニーチェ論だけは先生の「ぶっ飛び解釈」、より率直に言うならば「暴走解釈」なんではないかという風に言われることも少なくなく、筆者もその意見におおむね同意していたのだが、今回読み直してみて、だんだん先生のニーチェ解釈に納得しはじめたのである)、とにかく、後続の世代は、先生をはじめとする先人たちの残した著作を「叩き台にして」、哲学するとはどういうことかを学んでゆくわけである。
 
 
 後代の人々はこうして、ドゥルーズ先生が残した書き物を、ある意味ではドゥルーズ先生自身よりも熱心に読むわけである。先生も人間であられるゆえ、筆が滑ったところだってひょっとしたらあるかもしれぬのだが、その箇所でさえも後代のわれわれは「この表現には、何か意味があるはずだ」と思ってめちゃくちゃ深読みしちゃったりするわけである。そして、われわれ自身が哲学に対して行う貢献は、もしそれがなされるとすれば、まさにこうした先人の偉業の読み込みの作業のただ中から生まれてくるほかないと思われるのだが、すでに紙幅も尽きてしまったゆえに、今回の論点は次回に持ち越すこととさせていただきたい。それにしても、四十代の前半にしてこの完成か……。うむ……。