イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

善き師をめぐる探求を始めるにあたって

 
 今回探求したいのは完全に、前回の探求からの引き続きの主題である。
 
 
 今回の問い:
 善き哲学の師であるために、必要なことは何か?
 
 
 「変わりばえしないじゃん」と、ツッコまれる向きもあるかもしれぬ。あるいは、ツッコミすら皆無の完全沈黙空間でただ延々と相も変わらぬ独白を続けてゆくのが、わが運命なのかもしれぬ(くそう)。しかし、僕は最近はますます、体で分かってきたのだ。究極的にはたった一つの問いを目指してどこまでも歩んでゆくのが、哲学の道であると。
 
 
 「……はぁ。」
 
 
 このブログも、少しずつではあるが哲学そのものに近づいてきている……はずである。今の筆者に必要なのは、ただ哲学をし続け、いつの日か善き師になろうと修練を積み続けることのほかにはないのではなかろうか。地味である。しかし、本当によいものは長い下積みなしには築かれないというのも、争う余地がないはずなのである。
 
 
 というわけで、相も変わらず師である。探求を始めるにあたってまず注目しておきたいのは、次のような事実である。
 
 
 論点:
 善き師は、世から知られているとは限らない。
 
 
 マスター・ヨーダは、誰からも知られずに辺鄙な惑星ダゴバに住んで暮らしていたではないか。オビ=ワン・ケノービは、ただひたすらにタトゥイーンの砂漠を眺めつつ、長い隠遁生活を送っていたではないか。
 
 
 「人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」世から知られているかどうかは、その人が善き師であるかどうかとは全く関係がないはずなのである。レヴィナス先生もタルムードを学ぶのに、シュシャーニ師なる謎の人物に教えを請うたらしいからなあ……(とにかく、相当に変わった人だったそうである。興味のある方は、彼の伝記に当たられたし)。
 
 
 
ヨーダ 師 弟子 哲学 ダゴパ オビ=ワン・ケノービ レヴィナス タルムード シュシャーニ ハイデッガー ドゥルーズ
 
 
 
 思えば、筆者もかつては、善き師を探して世を巡り歩いたものであった。大学を出た後には二人の師に出会ったが、それぞれの師からそれぞれにかけがえのないことを教わったことをもって、恐らくは筆者の弟子生活はとりあえず終わったのではないかと自分では理解しているのである。
 
 
 人から教わるというのはすばらしいものなので、機会があったらまた誰かの弟子になってみたいような気もするのだが、今の流れ的には、少なくともしばらくはこうして孤独な鍛錬を積むことになりそうである。ただ、マスター・ハイデッガー、マスター・レヴィナス、そして、マスター・ドゥルーズという偉大なる師たちの本はこの後もくり返し読み続けるだろうから(なんだかんだ言って、筆者の書物の上での直接の師はこの三人で確定しつつあるということなのだろうなあ)、その意味では、いつまでも師から学び続けるということになりそうではあるが……。
 
 
 ともあれ、かつて先生から教わった人間がいつしか先生になり、教えた生徒のうちの誰かがまた先生になってゆくのを眺めながら生涯を終えるというのが、教師という道を選んだ者のたどる道なのかもしれぬ。筆者も、思いがけずに結局は教師とか先生みたいな方向にこの後も進むことになりそうだが、この辺りで、未来のあるべき姿について、ビシッと明確な理想を持っておきたいものである……。