イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

日本人とアメリカ人

 
 マルチチュード(前回の記事参照。哲学・人文学に明るい方は、この用語の用い方自体がある種の問題提起をはらんでいることに注意されたし)について問うにあたって、問答形式で回り道をしながら考えてみることにしたい。申し訳ないが、少し付き合ってもらえるだろうか?
 
 
 「……まあ、いいですよ。」
 
 
 すまぬ。それでは唐突ではあるが、まずはわれわれ日本人について考えてみたい。およそ世界の中で、日本人ほどに安全と快適を熱心に追求している国民がいるであろうか?
 
 
 「……いや、他にもいるかもしれないとはいえ、なかなかいないんじゃないですか。」
 
 
 僕もそう思う。ていうか、多くの人も同意してくれるであろうが、安全と快適の面からして、これほど住みやすい国はなかなかないであろう(この点、世界の他の国々に対してある種の罪悪感のようなものを感じている人も、少なからずいるようである)。それで、話は変わるのだが、生きることに対して最大限の刺激と解放感を追い求めている人々といっては、アメリカ人の右に出るものがあるだろうか?
 
 
 「……いえ、いないと思います。」
 
 
 映画ひとつとってみても、もうスケールが違いすぎるのである。爆発シーンとかも、いくら何でもここまでやるかっていうくらいに色んなものを必然性もなしに爆発させるし、ホラーとかバイオレンス映画でも、もうエグいほどにどんどんタブーを破ってくもの、ぶるぶる。多分、実際にアメリカに住むとなったら限りない憂鬱と絶望に襲われることは間違いないだろうけど、少なくともあの国に生きていて、退屈することだけはないであろう。
 
 
 
マルチチュード 人文学 哲学 アメリカ ウォシュレット ハンバーガー
 
 
 
 さて、問題はここからなのだが、もしひとが日本人に求めるべきものをアメリカ人に、また、アメリカ人に求めるべきものを日本人に求めるとしたら、それは愚かなことであると言えるのではないか?
 
 
 「……といいますと?」
 
 
 つまりだ、たとえば日本での生活に度肝を抜くようなエンターテインメント性を求めたり、アメリカでの生活に日本レベルの安全さと快適さを求めたりするとすれば、それは元々無理なことを要求していると言わざるをえないのではないか?
 
 
 「……それはそうでしょうね。」
 
 
 日本人の発明したウォシュレットほどに快適なものは、なかなかない。ひと仕事終えた後のおしりを一生懸命紙でふきふきしなくても機械が勝手に洗ってくれるというのは、もはや驚異的というほかないが、その代わり、おそらくは少しくらい日本での生活に解放感とハジけ具合が足りないとしても、あまり不満を言うべきではないのかもしれぬ。
 
 
 なぜと言って、刺激たっぷりなアメリカで生活するならば、確かにハンバーガーが死ぬほどでかかったり、プール付きの家で誕生日パーティーでウェイウェイ盛り上がったり、あるいはたまたま夜に行ったバーで知り合ったクロエ・グレース・モレッツとラブ・トーキングしちゃったり、刺激は尽きないであろうが、その代わりに、街を歩いていて銃を持ち歩いているヤバい人に遭遇する危険や、ウェイウェイ盛り上がってるうちにヤバい人が合衆国大統領になっちゃったりする危険にも、常にさらされているに違いない。以降の議論は次回に持ち越すこととしたいが、最後に、いくらウォシュレットが便利この上ないとはいえ、使用した後にまったく紙で拭かないとしたらその時には非常に憂慮すべき事態が引き起こされるという点にだけ、注意を喚起しておくことにしたい。(つづく)