イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ジョルジョ・アガンベンと、学ぶことの喜び

 
 論点:
 哲学の学びとは一面において、本質の真理が、すなわち、あるものの「何であるか」が、いまだ見知らぬものとして明かされる体験である。
 
 
 たとえば筆者自身の例でいうと、筆者には、最近アガンベンジョルジョ・アガンベン。最近、コロナ関連の発言で炎上したことでも人文界を騒がせた、イタリア哲学界の大物)の著作を読みながら、自分の中で「政治とは何か」という固定概念が揺るがされ、政治という営みそのものに対する考え方も変えられていっているという感覚がある。
 
 
 いや、アガンベン先生はヤバい。いま生きている哲学者の中で実力トップクラスなのは間違いなさそうであるが、先生の哲学の威力は、同時代という枠を取っ払ってみてもすさまじいものがあると言わざるをえないのではないか?たとえば、「ホモ・サケル」プロジェクトの最終巻である『身体の使用』(2014年刊行)から試みに、一つ言葉を拾い上げてみることにする。
 
 
 『身体の使用』エピローグにおけるアガンベンの言葉:
 今日、存在論的-政治的に基本的な問題となるのは、働きではなくて、働かないでいることである。新しい働きの場を息せききって中断することなく探求しつづけることではなくて、西洋文化の機械がその中心において後生大事に守護している空虚を露わにしてみせることなのだ。
 
 
 働かないんですよ。政治とは、働かないことなんですよ。フツーに言えば何だそりゃで終わりになってしまうところであろうが、先生は古今東西学術書を気が狂わんばかりに読み漁りまくった上で、政治とは働かないでいることの次元を解き放つ営みであると断言しておられる。
 
 
 ここではその主張を詳しく追うことはしないが、哲学とは、時に常識に対して集中砲火を浴びせるまことにエキサイティングな営みであることが、この一例からもよくわかる。アカデミックな仕事が注目されるような時代じゃないからあんまり人の関心を引いてはいないけれど、アガンベン先生はさしずめ、実はかなり過激なことを隠れて言いまくっている原理主義的政治神学者であるとでも言えるのかもしれぬ……。
 
 
 
アガンベン ホモ・サケル 身体の使用 政治神学 剥き出しの生 無為 栄光
 
 
 
 というわけで、今回の記事は単なる読書メモみたいな観を呈しつつあるが、何が言いたいのかというと、最初にも掲げた通り、哲学の学びとは本質の真理がまるで電光のようにして開示される、非常に刺激的な体験にほかならないということである。
 
 
 哲学の本を読むことは、確かに簡単ではない。発狂するほどに勉強しまくった人たちが全力で思考を濃縮しまくって書いたものだから、読む方も覚悟を決めて粘り強くテクストと格闘しまくらねばならないことは、否定しようもないのである。
 
 
 しかし、その難解さを引き受けてひたすらに道を切り開いてゆくならば、われわれってそれなりに、ていうかかなり快適で便利な生活を送ってるわけだけど、実はその生活って「無条件に殺害可能な剥き出しの生」みたいなヤバい次元と紙一重のものなのかもねとか、いやもう政治って結局求めてる究極の目標は実のところは「無為と栄光」なんだから、いっそのこと人間って、働かないでいることをもっと正面から考えてみるべきなんじゃねみたいな面白いことこの上ない主張(注:筆者は勤労の美徳をこよなく愛する旧体質の人間なので、この主張に無条件で賛同するわけではない。これは、何かの言い訳ではない)が、目くらめく論述の中にちりばめられてるのを発見したりするのである。学問ってほんとに面白いものだなあと、先生のおかげで改めて感じさせられている今日この頃である。