イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「きみの目に映るものを……。」

 
 この辺りで問題に、別の角度からアプローチしてみなければならぬ。
 
 
 論点:
 美が認識能力の自由な戯れと関係を持つことは疑いえないが、その一方で、芸術作品は、現実的なものに至ろうとする飽くことのない努力のただ中で生み出される。
 
 
 たとえば、一見現実とは関係のないキャラクターのイラストを描くという場合であっても、上手く描きたいならば、何らかの仕方で人体の構造や顔の成り立ちについて学ばなければならない。絵画の制作が緻密な観察にもとづくことは、言うまでもないであろう。
 
 
 当たり前のことではあるが、芸術作品とは、徹底的かつ綿密な観察なしには生まれえないものなのである。
 
 
 人類史上最高の文学作品の一つと言ってもほとんど異論は出ないであろうマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の、どのページでもいいからめくってみるとする。ほぼ例外なく、どんなページであっても、そこには著者であるプルーストが観察に観察を重ねまくった人やものや風景が、鮮やかに、これ以上ないというくらいに細やかな筆致によって描かれていることであろう。
 
 
 読者としては、よくもまあこんなに見たものだと驚かずにはいられないくらいに、プルーストの観察眼は鋭く、細かく、執拗である。芸術とは、まことに見ることへの限りない執念から生まれるものであるなあと納得する上では、『失われた時を求めて』はかの『源氏物語』に勝るとも劣らぬ傑作であるといえよう(神学の立場からすれば、目の欲の有罪性というテーマも絡んできてしまうことは、否定できなさそうであるが……)。
 
 
 
マルセル・プルースト 失われた時を求めて 源氏物語 芸術 哲学者
 
 
 
 芸術を味わうことを学べば学ぶほどに、われわれは、現実のこの世界を尊敬することを知るようになる。
 
 
 もちろん、この世界は、罪や愚かさや、本当は見過ごしていてはいけない不正で満ちている。われわれがいくら罪を犯さずに生きようと願っても、われわれが生活している人間の世界自体が、ある意味では罪の原理から作られているので、生きてゆくということは罪を犯すことであるといっても、それほど誇張した表現であることにはならないであろう。
 
 
 しかし、その一方でこの世界は、疑いようもなく美しい。美しいからこそ、事情は一筋縄ではゆかないほどに複雑であると言わざるをえないのでもあるとはいえ、それでも詩人をして「すべて世はこともなし」と嘆息させてしまうだけのものが、この世界には存在する。家のドアを開けて、外に出てみたまえ。妙齢の保母たちに連れられて、まだ生まれたてのひよこのような姿をした子供たちが、たくさん手をつないで歩いているではないか。哲学者よ、きみは、この世界を正しく眺めることを学ばねばならぬ。罪も不正も、そして美も、きみの目に映るものを何一つ見逃してはならぬ。