イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

自然から存在へ

 
 論点:
 自然の美はわれわれをして、存在するものの奥深さという観念に親しませしめる。
 
 
 いかなる芸術家も、自分の作り出す作品の美が、一本の樹木や、一筋の小川の流れのうちに宿る美を超えているとあえて主張することはないであろう。
 
 
 そして、彼らの作品自身が、自然との密やかな対話を通して生み出されてゆくものであると言えるのではなかろうか。たとえば、一首の万葉の歌を味わうことは、自然を形づくる〈四大元素〉と、古代を生きた一人の人間との間に取り結ばれた親密さが歌となって形をなすまさにその瞬間に、ふたたび立ち会うということである。
 
 
 私たちはこれまで「現実」や「現実のこの世界」という言葉を用いてきたが、この自然の美なるものを語るにあたっては、言葉を代える必要に迫られているように思われる。
 
 
 「現実」という語は、自然のうちに宿るアウラ的なものの繊細微妙なあり方を言い表すには、いわばあまりにも粗野で、角ばっているもののように感じられるからだ。これに比べるならば、完全に事柄にふさわしいかどうかという点はとりあえず別にするにしても、まだしも「存在する」という語の方が望ましいのではないかと思われるのである。
 
 
 存在するもののうちには、およそ言葉では言い尽くすことのできない奥深さがある。美の本質を問うとき、われわれは、どこかの時点でこの深みに、およそ捉えがたい〈神秘的なるもの〉の次元に突き当たることになるのではないだろうか。
 
 
 
万葉の歌 四大元素 現実 自然 存在 アウラ トマス・アクィナス 超越概念 形而上学 芸術作品
   
 
 
 論点:
 美とは、存在するものから放たれる輝きのことを言うのではないだろうか。
 
 
 『真理論』における叙述の不在にもかかわらず、研究者たちの中には、トマス・アクィナスにとっては「美」も超越概念の一つであったと想定する人々が少なくない。
 
 
 もしもこの想定が正しいとするならば、トマスにとって、「存在するもの」と「美」とは置き換え可能な表現であったことになる。これはつまり、あるものが存在することと、それが美しいということは等しいということを意味する。類を超えて当てはまる、存在するものの一般的様相としての超越概念のうちに「美」が含まれるかどうかという論点は、あらゆる美学に対して多大な示唆をもたらさずにはいないであろう、哲学史上の一大論点ともなりうるものなのである。
 
 
 上のテーゼに対して、この世界には、醜いものもいくらでも存在するのではないかと反論することは余りにもたやすいけれども、正しい視点から眺めるならば、すべての存在者は美しいと言えるのではないかというのもまた、芸術作品に親しむことを学んだ人間にとっては、動かしがたい、偽らざる直観としてあるのではないだろうか。美についてのわれわれの探求はここに来て、認識能力の反省から、存在するということそのものへの問いかけへと歩みを進めなければならない地点に立ち至っているように思われる(われわれはこうして、批判哲学から形而上学への移行の問題、あるいは、魂の認識理論から事物の存在論への移りゆきの問題を反復することになろう)。