イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

芸術は何と闘っているのか

 
 論点:
 芸術作品は、人間や世界の真実の姿を描き出す。
 
 
 子どもや青年たちは、現実から遊離した架空の世界や物語に夢中になるものである。
 
 
 それは、すでに論じたように、彼らが遊びという、能力の開発・訓練の過程のただ中にあることと深い関連があるだろう。彼らは現実と出会う以上に、彼ら自身の能力のフル回転状態(現実態)に出会わなければならない。剣と魔法、ロボットや仮想世界といったモチーフは、いわば彼ら自身の力能の形象化であるともいえる。この観点からすると、彼らはいわば、彼ら自身という夢を見続けていると言えるのかもしれない。
 
 
 それぞれの年代には、それぞれの仕事がある。人間は時がたつにつれて、もはや自分自身の能力ではなく、世界それ自身に出会うという課題に乗り出すことになる。
 
 
 言うまでもなく、この課題には、挫折と苦難がつきものである。RPGや育成シミュレーションは必要な鍛錬を、プレイヤーがちょうど心地よく感じられる程度に設定してあるけれど、現実の方はそうではない。自分自身の能力の限界や外的な障害、さらには、そこに人間関係の煩わしさや苦痛まで加わってくる。現実とは非常に面倒臭いものであると言わざるをえないが、青年から大人になるとはおそらく、この挫折と苦難を引き受けて、この現実のただ中で生きてゆくすべを学ぶということなのであろう。
 
 
 
芸術作品 現実態 RPG シミュレーション 哲学者 芸術家
 
 
 
 芸術作品にも、これと似たところがある。芸術は、気軽な接近を許さない。芸術は人間に、労苦し、考え、立ちどまることを要求する。
 
 
 なぜそういうことになるのかというと、作品は闘っているからだ。作品は作品のただ中で、実のこの世界と格闘している。作品は人間に対して、本当の意味で見ることを、聴くことをを示さなければならない(なぜならば、私たちはふだん、本当の意味では決して見てもいないし、聴いてもいないのだから)。この課題が、労苦の多いものではないことがあろうか。
 
 
 芸術が人間に感覚することを教えなければならないように、哲学もまた、人間に思考することを教えなければならないだろう。「気軽な哲学」というのは、大いなる語義矛盾なのである。哲学も芸術も、この意味では、その言葉の真の意味における大人の仕事であると言えるのかもしれない。
 
 
 そう考えてみると、筆者のように、大人になりきれていない人間が哲学をするというのも非常に皮肉なことのような気もしなくはないけれど、哲学者や芸術家というのは、大人になりきれていないからこそ「大人になる」、つまりは本当の意味で人間になるという果てしのない課題に打ち込んでゆくことを自分の使命と思い定めた人々であるのかもしれない。彼らの仕事はその本質からして、世の喝采を得られる類のものではないけれど、人間が全身全霊をかけて打ち込むべき仕事があるとするならば、他者を助けたり、他者の役に立ったりする仕事に加えて、まさにこれこそがその仕事なのではないかと最近では思うのである。