論点:
本質の問いを問うことのうちで、想起することとしての思考の本性が示される。
たとえば、「美とは何か?」と問う時には、ひとはこれまで出会ってきた美しいものや出来事のことを絶えず思い返しながら、その振り返りのうちで美の本質に迫ろうとする。
つまり、考えるという行為は、全く新しい何ものかを作り出すというよりも、はっきりと意識はしていなくとも、これまでもずっと知っていたはずのことを言葉にもたらそうと試みることなのである。「知っていたはず」というのがポイントで、私たちは、自分たちが以前から知っていたはずのことに反して思考することはできない。本質の真理を問うこと、すなわち、「〜とは何か」という問いを問うことは、私たちに、この不可能性に改めて向き合わせずにはいないといえる。
学ぶとは想起することであるというプラトンの教えは、この文脈からこそ理解することができる。ひとが考えるという時、それは、すでに知っていたはずのことを改めてことさらに言葉にもたらすという仕方で考えるのである。だからこそ、思考するとは捉え返すことであり、想起することなのである。
ただし想起するといっても、ここにはいわば、これまで一度も心に浮かんだことがなかったことを思い出すといったような逆説性があることを忘れてはならないだろう。ひとは、まるでもう一度ゼロから新しく作り出すかのようにして想起する。考えるとはいわば、これまでずっと知っていたはずのことを、生まれて初めて知ることなのである。
この意味からすると、哲学という営みは、生きることの本質を想起することであると言うこともできるのではないか。
生きること、あるいは、私たちが住んでいるこの世界とそこでの人間の生は、本当は、決して汲み尽くすことができないほどの豊かさを備えている。それは、幽邃な山の奥深くから湧き出している泉のようなものであり、ひとはその水をどれだけ飲んだとしても、それに飽くことはないであろう。
けれども私たち人間はまるで、その豊かさをはじめは見逃すことを何らかの必然の掟によって命じられているかのようである。恋をする人は、自分がなぜ恋をしているのかを知らない。森の中を歩く人は、〈存在〉が森を通してその人に語りかけてくるその語りかけを、避けようもなく聞き逃す。
哲学をするとは、このようにして失われていた記憶を、考えることのうちで一つ一つ丁寧に取り戻すことであると言えるのではないだろうか。ひとは、再び見出すという仕方でしか、生の本当の姿に出会うことはできないのである。哲学はだから、生涯の終わりに至った人間が「私の人生とは何だったのだろうか」と問うことに似ている。哲学はその本質から言って死の学びであり、此岸の豊かさを彼岸から捉え返すことなのである。知性が住まう叡知的世界は生と死を超えた彼方にあって、ひとはそこでこそ自分自身に与えられた生の、本当のかたちを知るだろう。