論点:
本質の真理を問うことは名づけることを越えて、さらに先へと進んでゆく。
たとえば、「美とは何か」という問いを探求したのちにわれわれが出した答えは、次のようなものであった。
美の本質についての定式化:
美とは、存在すべきものである限りでの、存在するものから放たれる輝きである。
ここには「存在する」という、「美」よりもさらに根源的な言葉が現れているが、これは「階段とは何か」という問いに対して「道具」というより根源的な言葉が現れてきたのと同じ成り行きである。あるものの本質を問うことは、問う前よりもさらに根源的な事象に向かって歩み行ってゆくのである。
哲学とは想起である。すなわち、少なくとも第一義的には、新しい経験に向かって突き進んでゆくというよりも、かつて経験したこと、あるいは、いま経験していることについてその「何であるのか」を、その本質を問おうとする。
けれども、このことは同時に人間を、根底的な意味において新しい経験に開け放たずにはおかないのである。ここでは、原初へ向かうことが、まだ見ぬ「別の原初」に向かって突き進んでゆくことであるような、ある特異な時間のねじれが問題になっているように思われるのだ。
言葉の次元においてより根源的なものの方へ進んでゆくにつれて、まなざしの次元においても同じことが起こってくる。かくして、本質の真理を問うこととは、ものや出来事、そして他者や世界と向き合う人間が、より根源的なるものの方に向かってまなざしを純化してゆくことなのである。
ある哲学者の哲学を本当に理解するとは、その哲学者の言葉づかいを覚えることでも、その言葉づかいを真似ることができるようになることでもない。より根本的には、彼あるいは彼女がものを見ている、そのまなざしのあり方を自分のものとするということである。
論理を追うことができるようになるというのは成果として小さなことではないけれども、それでも学びの途中にすぎない。まなざしを身につけ、自分自身の内側から先人の用いていた言葉が出てくるとき、何かを言い表そうとして、そのために先人がその言葉を用いなくてはならなかった必然性を理解しつつ当の言葉を口にするときにこそ、その先人と対話することのできる地点にまでたどり着いたということなのであろう。
さらに進んで、本当の意味で哲学をするとは、事象そのものの中へ踏み入っていって、自分自身のまなざしでその事象に眺め入りつつ、言葉にできるものとできないものの間で苦悩しながら、言葉が言葉として到来してくるその瞬間に立ち会うことなのではないだろうか。ここまで来て、二ヶ月半にわたって本質の真理の内実について問い続けてきたわれわれの探求もその終着点にたどり着いたのではないかと思われるので、次回の記事では、本質の真理と命題の真理の関係についても注意を払いつつ、先に進む前にこれまでの探求を総括してみることとしたい。