イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

しないでいることの困難さについて

 
 階段の二類型(再提示):
 ①消極的階段、あるいは、自然の中の階段。
 ②積極的階段、あるいは、建築における階段。
 
 
 ②の「積極的階段」について、もう少し考えてみることにしたい。
 
 
 すでに書いたように、階段を発明したことによって、人間が住空間を利用する際の幅は飛躍的に増大した。たとえば、竪穴式住居に住んでいた頃の縄文人たちは、まだ階段なるものを知らなかったゆえ、家も当然(今の基準で言えば)一階建てであった。彼らに対して二階建て、あるいは三階建ての家を紹介したとしたら、「すごいウホ!便利ウホ!」(注:これは、縄文人に対する親しみを込めた翻訳表現であり、差別的な意図は一切ない)などといった類の賞賛が得られることであろう。
 
 
 しかし、便利であるということは時に、その便利さから生まれる不都合をも引き起こす。
 
 
 たとえば、二世帯住宅というのは改めて考えてみると、階段という技術なしには成り立ち得ない家屋の形態である。階段によって「お義父さん」と「お義母さん」が住む一階と、息子夫婦と子供たちが住む二階が仕切られるからこそ、「分けるところは分けて、みんなで仲良く暮らしましょう♬」という発想も成り立つわけである(ここでは古来から続いているいわゆる「嫁入り」と、合意に基づく共住としての二世帯住宅とを区別して扱うものとする)。
 
 
 しかし、実際に二世帯住宅という壮大な社会実験を通して日本人が学んだのは、ほとんどの場合、二世帯住宅における生活は取り返しのつかない人間関係の亀裂をもたらすという痛ましい事実であった。特に、姑と嫁の間に生まれる葛藤の深さはかのマリアナ海溝をも優に凌ぐほどのものであり、その深奥を余すところなく描き切ることは、いかなる観察力を備えた向田邦子をもってしても成し遂げること能わずといった大事業となるであろうことが予想されるのである。
 
 
 
階段 竪穴式住居 二世帯住宅 向田邦子
 
 
 
 階段によって隔てられているということに、信を置くべきではなかったのである。二世帯住宅の失敗という出来事は、もはや「悲しすぎるウホ」としかコメントのしようのない歴史的事実であるが、われら日本人としてはただ、「二世帯住宅だけはやめておけ」という戒めの言葉を子々孫々にわたって語り継いでゆくことができるのみである。
 
 
 さて、哲学的教訓を引き出す段に移ろう。人間は、新しいことを始めるのは得意だけれども、技術の発展によって、できるようになってしまったことをしないままに止めておくことの方は、それほど得意ではない。
 
 
 二世帯住宅と階段の例は、そのほんの一例にすぎないけれども、科学技術時代の人間にとっては、「しないでいること」の叡智にとどまり続けることがますます難しくなってきているということは、いくら注意しすぎてもしすぎることのない事実なのではないかと思われるのである。これだったら原始時代のままの方がよかったなどということにならないように、今回の記事は「われわれ人間はこれからも、技術の本質について思索し続けることを怠らないようにしてゆきたいウホ」という辺りで結論をまとめておくこととしたい。