哲学とは自明のものに留まりつづけることであるということをさらに深く理解するために、われわれとしては今ひとつ、本質の問いを問うこととしたい。
問い:エスカレーターとは何か?
この問いは既に6月20日から7月20日にかけて問うた「美とは何か」という問いよりも、哲学的観点からする重要度はずっと低そうに見えるが、自明性こそ哲学の好敵手であるというテーゼを検証するには適しているものと思われる。直接的な答えだけではなく、この問いを問う中で見えてくる思考の風景にも注意を払いながら探求を進めてみることにしたい。
さて、この問いに対してすぐに思い浮かぶ答えというのは、言うまでもなく、「エスカレーターとは、機械によって動く階段である」といった類のものであろう。そうなると、それに続いて次のような問いが提起されることは必然であるように思われる。
問い:階段とは何か?
エスカレーターの「何であるか quidditas」を捉えるためには、まずは階段の「何であるか」を捉えなければならない。というのも、エスカレーターとは階段という、より一般的なものの中の一類型なのであることは明白であるから。このことはもちろん、他のものについても同様であって、アガンベン哲学を一つの哲学として適切に評価したいのであれば、そもそも哲学なるものについてきちんと知っておかなければならず、サミュエル・ベケットの作品こそ文学の中の文学ということを主張したいのであれば、文学一般についても深い理解があるのでなければならない、等々である(ヨーロッパでは非常に高く評価され、しかもめちゃくちゃ面白いにも関わらず日本では知名度が低いのはなぜなんだちくしょう、早く小説とか文庫化した方がいいんではないのかと思っているのは筆者だけであろうか)。
問いを問うのは大事なことであるが、どの問いを問うのかという点も死活的に重要なのであって、哲学の伝統においては普通、派生的な問いよりも、より根源的な問いを問うことの方が哲学的にはより重要とされている。
これって、哲学の外の世界ではあまり通用するようなことではない場合も少なくなくて、たとえば交際の相手から「ねえ、二人の式場ってどこにする?」と話を持ちかけられた時に「理想の結婚式場を判定するためには、まずは結婚とは何かという問いを突き詰める必要がある」とでも答えようものなら、多分その答え自体は事柄上はそれほど間違ってもいないのではあろうが、相手からは確実に「この男とはやはり、別れておくべきかもしれない」等々のネガティブな印象を与えることは避けられないものと思われる。日常生活では哲学的気質をひた隠しに隠し(「君の好きなところでいいよ、でもまずは、君の実家のお母さんの意見も聞いてみたら?」あたりが適当かとも思われるが、「それってどうでもいいってこと?」といった類の返答によって、事態が危険水域に移行してゆく可能性は低くない)、哲学の問いの方は裏でこっそりと、しかしあくまでも根源的に問うという方が何かと事が丸くおさまるのではないかと思われる。筆者も、「階段とは何か」という問いについては、話を持ちかけた隣人たちの顔が死んでゆくのを見るという愚行を犯さずに、このブログであくまでもひっそりと問い続けることとしたい。