イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

道具としての階段

 
 論点:
 通常の場合には意識されることはないという性質は、階段という存在者にとって本質的なものなのではないだろうか。
 
 
 すでに一度触れたように、私たちは毎日のように階段を利用しているけれども、「ああ、僕は/わたしは今、階段を利用しているなあ」とはっきり意識する人は、それこそ哲学者くらいのものであろう。ここで論じたいのは、このこと、すなわち、それとして明確に意識されないということが、そもそも階段の階段たるゆえんなのではないかということである。
 
 
 つまり、私たちは不注意だから階段のことを考えないというわけではなくて、階段とはそもそもその本性からして「はっきり意識されることなく利用されるもの」なのではないかと言いたいのである。そしてこれは、道具と呼ばれるあり方をしている存在者たちにはおそらく、本質的なことなのだ。
 
 
 たとえば、朝起きてテレビをつけた人は「ニュースを見る」のであって、テレビそのものを見るのではない。電車を降りた後にPASMOSuicaを入れた定期入れで改札機をタッチしている人は「改札を通っている」のであって、考えているのはPASMOSuicaや改札機それ自体ではなく、何か別のことであろう。
 
 
 道具というのはそれと意識されることなく、別の「〜のために」に利用されることを本質としている。筆者もこう書きながら、記事の下書きをするために鉛筆を使っているのだが(そしてその後に、書いたものを清書するためにiPadのキーボードを叩いているのだが)、考えているのはこの手に握ってカリカリ書いている鉛筆のことではなくて、道具一般についてである。そして、われわれの日常生活というのは、普段からこのようにして営まれているといえるのではないだろうか。
 
 
 
PASMO Suica 道具 マルティン・ハイデッガー 存在と時間 エスカレーター 階段
 
 
 
 以上のような事実にはじめて哲学的分析の光を投げかけた先行研究としては、言うまでもなくマルティン・ハイデッガーの『存在と時間』が挙げられる。ハイデッガーは世界の世界性を究明するという課題を遂行するただ中で、そこへの手引きとして道具の分析を行っているのであるが、興味のある方は同書の第15節周辺を参照されたい。
 
 
 ここに来て、われわれがこの半月にわたって階段の分析を続けてきたということの意義(?)が、改めて明らかになってくる。
 
 
 哲学的分析とは、本質的に意識の主題には上ってこないものをさえも主題的に考え抜こうという、ある意味ではこの上なく酔狂な営みなのである。しかし、その分析の過程の中でわれわれ自身とは何なのか、人間とはどのような存在なのかが照らし出されてくるとすれば、これほど面白いことはなかなかないのではなかろうか。「いや、つまらんよ」と言われてしまったら筆者としてもはや返す言葉もないのであるが、そして、ここ半月の分析も、おそらくは哲学気質を持つ一部の人々以外からは最大限の無関心をもって迎えられること必定であるが、とにかくここ半月間の思考の漫遊に付き合ってくださった奇特な方々には、まさしく感謝というほかないのである。次回の記事でここまでの分析の歩みを振り返りつつ、そろそろエスカレーターと階段についての考察を締めくくることとしたい。