イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

言葉とまなざし、イデアと想起

 
 本質の真理を問うことは、ある意味で、ものや出来事をふたたび名づけることであると言えるのではないか。
 
 
 たとえば、美とは何か。私たちは様々なものや事柄を美しいと呼んでいるけれども、その「美しい」という言葉は何を意味しているのだろうか。この問いは、何が美しいと呼ばれうるのかという、意味の外延をめぐる問いではない。むしろ、美しいという言葉の意味の内包を、美しいものを美しいものたらしめている当のものを問うことなのである。
 
 
 ここで強調しておきたいのは、本質の真理をめぐる問いを問うことは、言葉の意味の用法の探査のみに終わるものでは決してなく、むしろ、私たちに対してものが現れ出てくる、そのあり方そのものを根底から追体験させるような経験でもあるということである。
 
 
 言葉の用法というものには、おそらく、どれだけ注意を払っても払いすぎることはない。たとえば、私たちはあるものを「可愛らしい」でも「きれい」でもなく、なぜ「美しい」と呼びたくなるのか。私たちが語る言葉は、ある意味では私たち以上に物事を知っている。言葉は、それを発している私たち自身にもはっきりとその理由がわからないままに、自らを言葉として発させるのである。
 
 
 しかし、ある言葉を言葉として発することは、その言葉を発させているまなざしのあり方に基づいてしか可能にはならない。このまなざしのあり方も、まなざす当の私たち自身にははっきりと知られてはいないけれども、ある種の知をすでに備えている。私たちのまなざしがものや出来事を美しいものとしてまなざすその仕方を知っているからこそ、私たちはそれらのものを見るに際して、美しいという言葉を思わず口にすることになるのだ。
 
 
 
美 言葉 まなざし プラトン 哲学 想起 イデア
 
 
 
 まなざしと言葉とは、かくして何事かを常にすでに知っているのであるけれども、日常の世界においてはいわば眠り込んだままにものや出来事をまなざし、語り続けている。本質の真理を問うことは、このまなざしと言葉をふたたび目覚めさせて、言葉がはじめてものや出来事を名づけるところの、その名づけの行為をふたたび執り行おうと試みることなのである。
 
 
 プラトンが言うように、哲学とは本質的に想起(アナムネーシス)である。しかしそれは、今までに一度も思い出されることのなかった記憶を思い出すような想起であり、永遠の側から生者の世界をまなざすことである。私たちはかつてイデアを眺めたからこそ、より正確には、イデアを通してものを眺めたからこそ、ものをそのものとして名づけた、あるいは、名づけられたその名を受け取った。ところが、今ではそのことの記憶を失っているのである。
 
 
 イデアをもう一度見ること以外の何が、名づけの反復を可能にするのであろうか。この反復においてこそ、ひとはもはやイデアを通してものを見るのではなく、今度はイデアそのものを、ものを通すことなく見るのである。哲学とは一面において、想起されたこのイデアをはじめて直にまなざしつつ、言葉を真正な言葉として語り直そうとする営みにほかならないのだ。この意味においては、哲学は、言葉とまなざしにおいて私たちを眠り込ませようとする、そのまどろみに対する不断の抵抗の試みであるとも言えるであろう。