イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間を根源から問い直す:『存在と時間』の問題意識

 
 私たち人間は必ず常にすでに、何らかの存在了解のうちで生きている。ハイデッガーはここから、『存在と時間』における自らの課題を設定するに至る。
 
 
 『存在と時間』の問題意識:
 存在の意味への問いを問うためには、まずは現存在、すなわち、人間という存在者のあり方を徹底的に問い直さなければならない。
 
 
 私たち人間の持っている「ある」についての理解は、極めてあいまいで、漠然としている。
 
 
 これは、「ある」についての理解が曇らされ、覆われてしまっていることに由来している。「ある」について古来から人々によって言われてきたことのせいで、「ある」の奥深い意味が平板化されてしまっていることもあるだろうし、もっと深刻なことであるが、人間が抱えている何らかの必然的な傾向によって、私たち自身が、「ある」のその時々の真の意味に代えて、偽装された、平凡な意味を割り当ててしまっているということもあるかもしれない。
 
 
 そうであるならば、「存在する」ということの意味を問うためには何よりもまず、私たち自身が何者であるのかを問わなければならないのではないか。たとえば、私たちにとって「わかる」とは、「理解する」とは何を意味しているのか。それのみならず、私たちはそもそも、どんな時に、何を理解していると言えるのだろうか。
 
 
 このような問いを問うためには、理解し、了解する存在者であるところの人間を、一切の先入見を捨て去って、根源のところから捉え直すのでなければならないだろう。過去から伝承されてきた先入見や、人間自身の内側から絶えず湧き起こってくる、「ある」を覆い隠す傾向に抗うことのうちで、「ある」の真の意味が閃いてくるその瞬間を捉えつつ、それを「学問」としての言葉のうちにもたらさなければならない……。
 
 
 
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 注意しておくべきは、このような人間に対する問いかけにあっては、狭い意味での「認識する」という行為だけを問題にするわけにはゆかないということである。
 
 
 認識する、すなわち、物事を理論的に考察するという存在のあり方はあくまでも、人間のあり方の一つの様態にすぎない。哲学、特に近代の哲学は認識を特権視して、人間を「意識」や「主観」として捉えるまでに至ってけれども、そのことは果たして正しかったのだろうか。むしろ、そのことは人間をある特定の角度からしか眺めないことによって、人間の本当の姿を覆い隠し、見えなくさせ続けてきたのではないか。
 
 
 存在了解、すなわち、「ある」についての人間の理解は狭い意味での認識という領域を超えて、はるかに広がっているのかもしれないのである。おそらく、人間についての根源的な問い直しは、これまでの哲学が当たり前なものとして通り過ぎ続けてきた、「ごくありふれた」日常の場面のもとにさえも、あえて立ちとどまり続けるものでなければならないだろう。何一つ見逃すことなく、人間に対して「ある」が閃いてくるその瞬間を注視し続けようとするまなざしだけが、人間についての真に学問的な把握を成し遂げることができる……。
 
 
 『存在と時間』はかくして、近代の哲学がそれまで目指し続けてきた「認識の批判」あるいは「超越論的現象学」といった課題に代えて、「現存在の実存論的分析論」を哲学の第一の課題として設定する。「現存在の実存論的分析論」とは平明な言葉で言い直すのならば、すでに述べたように、「人間を、人間として根源のところから問い直す」ということにほかならない。『存在と時間』は若き日のハイデッガーが、近代哲学の枠組みに対して引導を渡そうと試みた「挑戦の書」でもあったのである。
 
 
[先日、Twitter上で関わらせていただいている方から、このブログでの『存在と時間』の読解を楽しみにしているとの言葉をいただき、非常に励まされました。引き続き、この本の読解に力を入れて打ち込むこととしたいと思います。]