イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在の問い

 
 論点:
 本質の問いよりも深い問いは、存在するのか?
 
 
 これまで本質の問い、すなわち「〜とは何か?」と問うことの意味について考えてきた。
 
 
 この問いも、主題によっては相当に根源的なところまで行くものであって、たとえば「美とは何か」「正義とは何か」などと問うとすれば、それはもう哲学の中核に行き当たらずにはいないであろう。しかし、この問いの問い方よりもより直接に、廻り道なしに根源的なところまで行く問いというのは存在しないのであろうか。これこそがその問いだと言えるような、問いの中の問いとも言うべき問いというのはないものなのか。
 
 
 実は一つ、そうした問いはなくはないものと思われる。その問いとはすなわち、次のようなものである。
 
 
 問い:
 なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?
 
 
 これは、18世紀の哲学者であるG.W.ライプニッツによって提起され、前世紀にマルティン・ハイデッガーが1935年の講義『形而上学入門』でも冒頭に掲げたものである。ちなみに二人ともドイツ人なのであって、哲学の根源に迫るドイツ的なものの力には、哲学史の観点からはやはり驚嘆せざるをえない。
 
 
 それはそれとして、この問いである。この問いをこれからは「存在の問い」と呼ぶことにしよう。存在の問いが提起する問題とは、どのようなものだろうか。真理とは何かという問いをさらに問い進めるにあたって、まずはこの点を掘り下げることから始めることとしたい。
 
 
 
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 まず指摘する必要があるのは、ハイデッガーも言うように、この問いは個々のあれこれの存在者についてではなく、全体としての存在者について問うものだということである。
 
 
 われわれの日常生活においても、「なぜ、こんなところにR2-D2の実物大フィギュアがあるんだ……?」あるいは「ちょっと、なんであんたの部屋に私のじゃない口紅が落ちてるのよキエエエェ」といったように、個々の存在者については、その存在についての問いを発することも少なくないであろう。こうした問いについては、「いやぁわたくし、実は先日どうにも我慢できなくて、ついに買っちゃいましてねえニヤリ」とか「ああそれね、それはその、とにかく全然不思議じゃないんだよそんなんじゃないよ全然違うよ、今から説明するけどホント違うからさペラペーラ……」とかいったように様々な答えがありうるのであって、ひとは、納得できるまでその問いを突き詰めてみることができる。
 
 
 これに対して「存在の問い」は、「そもそも、R2-D2のフィギュアやら部屋に落ちている口紅やら、そういったあれこれの存在者をすべて含みこむところの、全体としての存在者が存在するのは一体なぜなのか」と問うのであって、もっと端的に言ってしまうならば、一体なぜ世界は存在しているのであるかという、根源的といえばあまりにも根源的な問いなのである。第一感として、そもそもこんな問いに答えなどあるのかという疑問が浮かぶことも避けられないと思われるが、とりあえず、この問いが何を問うているのかを今しばらく掘り下げてみることにしたい。