イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

伝統的真理観としての一致と、その理念が提起する問題について

 
 論点:
 真理の超絶というイデーは、一致はいかにして可能なのかという問題を提起せずにはおかないであろう。
 
 
 「真理とは、あるものが、それがある通りにあるという、そのことである。」真理を第一義的にはこのように定義するとしても、第二義的には「真理とは、ものと知性との一致 adaequatio rei et intellectusである」という伝統的な真理観を保持しないわけにはゆかないだろう。すなわち、第一義的には真理とは「それを知る人間がいなくとも真理であり続けるもの、すなわち、真理そのもの」(真理の超絶)であり、第二義的には「その真理を人間が知ること、あるいは、人間が知る限りにおける真理」を指すとしなければならない。
 
 
 一致というイデーは放棄できない。たとえば、人間が知りうる限りでの真理のうちでも最も規範的なものといえる命題の真理の次元は、一致という理念なしには思考することができないものと思われる。真であるとは、命題によって意味されている状態あるいは出来事が現に起こっていること、すなわち、命題と事態とが一致していることに他ならないからだ。
 
 
 この点、言明の真であることを「覆いをとって発見すること」として解明しようとした『存在と時間』の真理論は、開示し、発見するものとしての言語の存在に焦点を当てたという意味では大きな意義のあるものであったと言えるけれども、そのことは、一致を派生的なものとすることまでをも正当化するものではないと思われる。言語は世界のものごとをあくまでも「一致するものとして発見する」のであり、この「一致するものとして」はハイデッガーがそう考えたように、発見することに対して二次的なものではありえないのである。
 
 
 
真理 真理の超絶 存在と時間 ハイデッガー ある
 
 
 
 さてしかし、第二義的なものとして真理についてこの伝統的な「ものと知性との一致」を認めるということになると、決して小さなものとは言えない問題が提起されてこざるをえない。それは、人間が知る限りにおける真理が真理そのものと一致しているということを、どのようにして知りうるのかという問題である。
 
 
 「ある」は認識の主体であるわたしを、あるいは人間を超えているということ、これが筆者の根本的な立場である。この「超えて」は、あらゆる相関関係に対する超絶を意味するのでなければならない。「ものと知性との一致」よりも先に、まずは「ものがものとしてあるという、そのこと」を真理の根源的なエレメントとして考えるというのが、真理の超絶、あるいは存在の超絶に基づく真理というイデーの根幹だからである。
 
 
 しかし、そうなると、私たち人間が真理を知るということは、いかにして可能になるのだろうか。あるいは、仮に私たちが何らかの真理を知っているとしても、その真理が単なる思いなしではなくまさしく真理であるということをどのようにして知ることができるのだろうか。真理が超絶であるのだとすれば、それが真理である以上、一致を確証する手立ても存在しないということにならざるをえないのではないか。
 
 
 このような問いかけは「真理とは何か」というわれわれのそもそもの問いの範囲を超えて、「真理をどのようにして知りうるか」という問いを提起するものである。後者の問いについてはこの後に考えることにするとして(この後は、他者問題を手引きとしてこの問いについて考えてみる予定である)、とりあえずのところは前者の問いに対する目下の答えは与えられたので、次回の記事ではこれまでの思考の歩みを振り返りつつ、今回の探求に一区切りをつけることとしたい。