イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「真理問題は二千年来、ほとんど一歩たりとも進展していない」:『存在と時間』の問題意識

 
 さて、真理論である。これまでに得られた分析の成果を総動員しつつ、ハイデッガーが『存在と時間』第44節「現存在、開示性、真理」で答えようと試みているのは、次のような問いにほかならない。
 
 
 『存在と時間』第44節を突き動かしている問い:
 真理とは何か?
 
 
 この問いは、哲学者たちであっても多くの場合には答えることなく通り過ぎてしまう問いである。つまり、哲学者たちは「これこれのことは真理だろうか」とか、「わたしが真理として知りうることは何だろうか」と問うことはあっても、そこから遡って「それでは、そもそも真理とは何だろうか」と問うことは非常に稀なのである。
 
 
 ところで、ハイデッガーがこの問題に対して下した判定は、「この問題は、問われることは非常に稀である」どころではなかった。
 
 
 ハイデッガーの状況認識:
 「真理とは何か」という問いに関する究明は、二千年来、ほとんど一歩たりとも進展していない。
 
 
 二千年来とは、これ以上ないというくらいに大きく出たものである。彼によれば、アリストテレスによって「真理とは何か」という問いに対して一定の方向性が与えられた後の哲学の歴史は、その方向性に沿って「知性と物との一致 adaequatio intellectus et rei」という伝統的真理概念を形成するに至った。ただし、この「知性と物との一致」は新しいものであるというよりも、ある意味では、まさしくアリストテレスがすでに素描していた真理観を明示的に定式化していったものにすぎないのであって、哲学者たちはこの真理概念だけで十分であるというかのように、「真理とは何か」という問いをそれ以上問うことはしなかった。これが、ハイデッガーが「真理問題の解明は二千年来、ほとんど一歩たりとも進展していない」と主張することの歴史的な背景である。
 
 
 
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 この時点でハイデッガーに反論する哲学者たちも、あるいはゼロではないかもしれないが、ここまでであれば、多くの哲学者たちも「一応、話は了解した」とうなずいてはくれることであろう。オーケー、言いたいことはわかった。確かに、我々はスコラの人々が言うところの「知性と物との一致」で満足し続けてきたかもしれない。
 
 
 だが、と彼らは続けるであろう。それは何も我々が怠けていたからではなくて、ただ単純に、真理問題なるものはこれ以上進展させようがないからではないのか?認識が事物と一致する、あるいは、判断が対象と一致する。これ以上に当たり前な話もないではないか。進展していない、といったことではないのだ。ただ、この問題についてはこれより先に掘り下げようがないというだけなのだ。この話は結局のところ、アリストテレスはどれだけ偉大であったかという、例の古き良き教訓に帰着する。我々の限りある労力は、他の問題に注ぎ込んだ方が有用というものではないか……。
 
 
 こうしたコモン・センスのすべてに抗ってハイデッガーが『存在と時間』第44節で提出した「アレーテイアとしての真理」の概念は、真理問題をめぐる歴史の上でも一つの画期をなすものであった。1927年に提出されたこの概念は、主張されてからまだ百年も経っていないこともあって、いまだに歴史的遺物として埋もれるには至っていない、いわば「目下係争中の」概念であるといえる。哲学の歴史はゆっくりとしか進まないと言われるゆえんであるが、私たちとしては、この概念に向かって一歩一歩進んでゆくことにしよう。