イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超脱のエレメントとしての言語

 
 論点:
 他者であるあなたがあなた自身について語るという経験のうちで、超脱のエレメントとしての言語の本性が示される。
 
 
 他者であるあなたの「わたしはある」は、わたしには直接には決して知りえない(他者の超絶)。あなたが言葉を語るとは、到達しえないはずのこの異他的な「わたしはある」が、声にはらまれた意味のうちにおのれを示すような経験であると言えるのではないか。
 
 
 言葉は、人間と人間の間を越えて語られる。言葉はその本性からして孤独なモナドのうちにとどまってはいないのであって、おそらくは同じ言葉が、他者であるあなたから、孤絶しているはずの唯一的な主体であるわたしの元にまで届けられる。「おそらくは」という言葉を用いたのは、デカルト的な孤絶であるわたしには、その言葉が本当にわたしを超絶する他者のもとから届けられたものであるのか、絶対的な確実性とともに知ることはできないからだ。
 
 
 しかし、事実性の次元はまず間違いなく、確実性の次元を超えて働き続けている。自己と他者を越境する事実性としての言葉は、窓のないモナドとしてのわたしを触発し続けてやむことがない。こうして、この世界のうちで実存する存在者としての人間の生は、自己を超絶する無数の他者たちによって呼びかけられ、教えを授けられ続ける生であると言えるのではないか。
 
 
 
他者の超絶 モナド 超絶のエレメント 言葉 超脱 非人称的なもの
 
 
 
 自己が自己のうちにとどまり続けながら自己の外へ出てゆくこの運動を、超脱と名づけることにしよう。言語とはまずもって、人間が自己の外へと出てゆくことを可能にする、超脱のエレメント(境位)であると言えるのではないだろうか。
 
 
 言葉を意味作用の体系としてのみ捉える限りは、超脱の契機に目が向けられることもないだろう。しかし、言葉の経験は意味作用の経験であるのと同時に、認識の主体であるわたしがわたしを超絶する他者に向かって開かれてゆく、その開かれの経験でもある。孤絶が事実的に破られてゆくこの経験に、言語活動のうちに本源的に含まれているこの超絶への関わりに目を向ける時には、言葉が真正な仕方で「言葉となる」のは、この超脱の運動においてなのではないかという見方も成り立ってくるように思われるのである。
 
 
 現代の生とは、言葉が宛て先も、語りかける行き先をも失ったままに、ただ非人称的な意味作用だけが空転し続けるような生であろう。非人称的なものとなった言葉は情報伝達という機能だけを果たす無意味として、人間の生を他者のいない世界という病のうちに追いやってゆく。言葉を超脱のエレメントとして考えるとは、人間の生をしるしづけているこの孤絶から目をそらすことなく、その孤絶のただ中で孤絶が破られてゆく出来事の見えざる出来事性に、改めて目を向けることでなければならない。