イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超脱における知の照らし、あるいは、聞くことと語ることの間の非対称性について

 
 論点:
 他者の言葉を聞くことは、孤絶しているはずの自己が他者の知によって照らされる経験であると言えるのではないか。
 
 
 「自己のうちにとどまり続けながら自己の外へと出てゆくこと」としての超脱の契機について、もう少し考えてみることにしよう。
 
 
 ①超脱の運動においても、認識の主体である人間は、ある意味では自己の生の内部にとどまり続けている。他者の他者性は超脱の運動によって解消されるわけではなく、むしろこの運動のうちでは、他者であるあなたがわたしを超絶しているという事実がますます際立ってくる。認識の主体であるわたしは、主体が主体である限り、窓のないわたし自身のモナドという場所から離れることは決してないからである。
 
 
 ②それにも関わらず、超脱の運動においては自己が「自己の外に出る」。すなわち、わたしは自己自身の内側にとどまり続けながら、言葉を他者の「わたしはある」の提示として受けとるのである。
 
 
 他者の「わたしはある」のうちには、わたしが決して知ることができないはずの知が宿っている。他者が言葉を語るとは、直知することのできないこの感覚不可能な知が、声や文字としてわたしの意識のうちでおのれを示すような経験であると言えるのではないか。認識の主体であるわたしはこうして、他者であるあなたの知によって照らされる。超脱の運動とはまずもって、このように逆説的な「知の照らし」の経験を意味するのではないかと思われるのである。
 
 
 
モナド わたしはある 知の照らし
 
 
 
 言語をこのような超脱のエレメントとして考えようとする際には、従って、言語活動の本源性は、語ることよりも聞くことのうちにこそ見て取れるのではないかという見方も成り立ってくるのではないだろうか。
 
 
 語ることと聞くこととは、単に対称的な一組の行為なのだろうか。あるいは、聞くことよりも語ることの方がより根源的であり、自己を明かすこととしての語ることが聞くことに対してモデルを提供するのであって、聞くことは語ることの投影あるいは移入でしかないということになるのだろうか。
 
 
 むしろ、事態は逆なのではないか。言葉が言葉であるゆえんは、言葉が、自己を超絶する他者によって語られるという事実のうちにこそある。自己を明かし、言い表すこととしての語りは、事実的にも原理的にも、聞くことの後にしか可能にはならないのではないか。自己に対する自己自身の透明さ、自己に対する自己の知さえもが、本当は、かつて自己が謎のような他者の言葉のうちに宿っている「触れえないはずの知」によって照らされた経験に由来しているとしたら、どうなのだろうか。
 
 
 私たちの知は、かつて私たちのモナドが他者たちの知によって照らされた経験の内化によって成り立っているのではないか。もしも事態がそのようであるとするならば、「自己に対する自己の透明さに基づいて語ること」としての近代哲学の企ては、より根源的なものであるところの知の源泉の探求を、手つかずのままに残していたことになる。この見方によるならば、明晰判明な意味作用とともに自己を語ることには、謎としての超絶によって語られた言葉を聞くことが常に先立っているということにならざるをえないもののように思われる。