論点:
超絶へと向かう人間の実存の本来性は、聞くことの取り戻しとして遂行されるのではないか。
頽落の状態、すなわち、平均的な日常性のうちにある人間は、他者の言葉に耳を傾けることを怠っている。それというのも、他者の言葉を受け入れるとは教えを受けることであり、自己から追放されて自己の外へと出てゆくという不断の労苦を伴うからである。
言語活動に関する私たちの実存論的分析が示してきたのはしかし、聞くことは、本当は語ることに対して事実的にも原理的にも先立っているということであった。聞くことは事実的な過去として、わたしの語ることの実質を形づくり、わたしの思考をいわば「意識されざる辺縁」として取り巻いている。この意味からすると、頽落の状態にある人間は、語ることに対する聞くことのこの先行性を否認し、忘れ去ってしまおうとしていると言えるのかもしれない。
もしもそうだとするならば、自己を超絶する他者の方へと向かう人間の実存の本来性は、この否認と忘却から再び身を引き離して、いま一度他者の言葉に耳を傾け始めることによって実現されるのではないか。そのことは、日常のうちへの日常ならざるものの迎え入れとして、わたしを超えるものに向かってのわたしの脱-存として生起するのではないだろうか。言葉なるものについての私たちの考察はかくして、人間を、人間が差し当たりそうあるのとは別の実存のあり方へ向かって、人間の人間性が言葉の十全な意味において実現される「別の生」を示唆するもののように思われるのである。
さまざまな情報源から多くの情報を得ることが、聞くことを実現するとは限らない。聞くという行為を本当の意味で実現するのはむしろ、隣人が口にしていた言葉の意味を、一人になった後にも忘れ去ってしまうことなく考え続けるといった営みの方かもしれない。言葉を聞き取るとは、言葉の表面的な意味を理解することではいささかもない。他者が口にする言葉の意味は、原理的から言って、その言葉を聞いているわたしが再構成する意味のうちでは汲み尽くされることがないのである。
私たちの時代は、過去のどの時代も実現しえなかったほどに、数多くの人間と人間を出会わせ、互いに情報を交換させる技術を発達させてはいる。しかし、そうした技術の恩恵に浴しているはずの私たちはなぜみな、これほどまでに病んでいるのだろうか。情報の大海に繋がれているはずの一人一人の人間がそれぞれの「他者のいない世界」を生きているというこの状況は、いったい何に由来するのだろう。
哲学になしうることが何かあるとすれば、それは、人間の人間性を根底から問い直すことのうちで、もし人間が再び自分自身を超える他者の言葉に本当の意味で耳を傾けるという出来事が起こりうるのだとすれば、そのためには何が必要なのかを探り続けることに尽きるのではないか。人間の人間性とはおそらく、思惟の努力によってたえず目覚めさせられ、保たれることがなければ、たやすく失われてしまうものなのである。