イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

事実的な与えについて

 
 論点:
 他者についての認識は、事実的な与えとして与えられるほかないのではあるまいか。
 
 
 認識の主体であるわたしには、他者であるあなたの意識を直接に知ることは決してできないけれども、わたしがあなたについて知ることは何一つないというのも、言うまでもなく私たちの抱く直観に反している。恐らくは、窓のないモナドとしての孤独を運命として課せられている私たちにも、少なくとも幾分かは他者について知ることが許されてはいるのだろう。
 
 
 しかし、仮に他者について何事かを知ることができたように思われたとしても、その認識が正しいということを絶対的な確実性とともに知ることは、人間には不可能である。
 
 
 その認識は誤っていることもありうるし、部分的には正しいとしても、別の側面からすれば極めて部分的なものにすぎないことも十分にありうる。そして、他者を理解するという行為については、その人のことをもう知ってしまったと思っている時にこそ、その人のことを捉え損ねてしまう危険もそれだけ大きいということは、ある程度の知恵と慎ましさを備えた人ならば誰でも知っていることである。私たちの日々の生活そのものを印しづけているこの宿命的な無知は、その根源をたどれば、認識の主体であるわたしが、他者であるあなたをあなた自身において直知することはできないという原理的な不可能性に基づいているのである。
 
 
 
他者 モナド エビデンス 事実的な与え 恩寵
 
 
 
 しかし、本題に再び立ち返るならば、この不可能性にも関わらず、人間に他者について何事かを知ることが許されるとするならば、その認識は「事実的な与え」として、すなわち、それ以上遡って基礎づけたり、その与えが行われることを前もって保証したりすることの決してできない与えとして与えられるほかないのではないだろうか。
 
 
 こと他者の認識に関しては、私たちには「エビデンスを取る」ことはできないのである。より正確に言うならば、他者とのやり取りを積み重ねてゆくことによってエビデンスらしきものを得てゆくことは不可能ではないのであるが、それはあくまでもエビデンス「らしきもの」の範囲にとどまるのであって、すでに繰り返し論じているように、超絶としての他者に関しては、完全なエビデンスとしての直知は原理的に言って不可能なのである。このように、かくも私たちを超絶している他者たちに取り囲まれながら私たち人間の日常生活が営まれているという形而上学的な事実は、本当は、真に驚嘆の名に値するものであると言わざるをえないのではあるまいか。
 
 
 実は、過去の哲学の伝統においては「事実的な与え」という語以上にこの事態を的確に表現する語が用いられていたことがあって、その語とは他でもない「恩寵 gratia」である。この語が現代の人間にはすでに縁遠いものになってしまっているという理由から、私たちとしては「事実的な与え」の方を主に用いることとしたいけれども、私たちがいま取り組んでいる他者の他者性という問題に関しては、本当は、この語が喚起させる神学的文脈についての理解がなければ、おそらくはこの問題の射程を汲み尽くすこともできないのではないかと思われるのである。