イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

二月の振り返り

 
 次回からは別の主題に移ることとして、今回の記事では、二月の歩みを振り返っておくことにしたい。
 
 
 二月前半の探求では、実存の本来性としての聞くことの取り戻しを可能にする根拠を求めて、信じるという契機の分析を行った。他者への信は人間にとって、一箇の実存論的アプリオリを構成するものである。このアプリオリは、差し当たりたいていの状態においては当人には意識されていないけれども、それにも関わらず常にすでに深いところから生を構造化しているものであると言うことができる。
 
 
 後半では、他者への信の派生態として、「公衆が真理を語る」という、現代世界における信の一般的な構造を取り扱ったが、その過程で、人間と公共性の間に存在する一筋縄ではゆかない関係を明るみにもたらすのでなければ、実存する人間の本来性に到達する通路も塞ぎ立てられたままであるという事情が見えてきた。三月には、筆者の哲学の根本的立場をより堅固に定めるという観点からこれとは別の主題を取り扱うが、その課題を終えた後には、公共世界についての考察に再び取りかかることとしたい。
 
 
 さて、二月の探求を通してますますはっきりと見えてきたのは、現代の哲学からは以前からほとんど顧みられなくなっている「実存」という語の指し示す問題圏を、徹底的に踏査することの必要性である。
 
 
 この時代に人文知の教育を受けた人間の常として、筆者もまた、フランス現代哲学を学ぶことから自分自身の知的形成を開始した者の一人である。ジル・ドゥルーズミシェル・フーコーの著作を片っ端から貪るようにして読みつつ哲学の世界に引き入れられていった筆者のような人間にとっては、実存という語は最初、何かひどく古めかしい、言ってしまえば時代遅れのものとして感じられ、従ってほとんど意識もされなかったものだが、おそらくはこのような感受性は、同時代を生きている多くの哲学者にも共有されているものなのではないかと思う。
 
 
 
アプリオリ 公衆 フランス現代哲学 ジル・ドゥルーズ ミシェル・・フーコー
 
 
 
 それから十年以上が経過した現在、哲学という営みについての考え方も大分変化した上で、今度は自分自身が哲学を打ち立ててゆく段になってみると、この語が持っている事柄上の根本的な重要性が以前よりもずっと痛切に感じられるようになってきた。
 
 
 哲学の営みが人間の人間性を根底から問い直そうとするものである限り、人間が単に存在するのではなく「実存」するという事実のうちには、決して見落とすことのできない問題がはらまれている。問題のこの次元を見ることをせずに何らかの「次の段階」に進んでゆこうとするならば、それは思考の進歩を示すものであるというよりも、不注意を示すものであるに過ぎないのではないか。
 
 
 哲学の歴史は言葉をめぐる闘争の歴史でもあって、語彙の流行り廃りはつきものである。さまざまな語彙が、目まぐるしい勢いで提案されてはまたすぐさま消え去ってゆくが、後に残るのは事柄自身の必然性に基づいた、しっかりとした土台をもつ言葉だけである。筆者も哲学者のはしくれとして、後の時代にも残りうるようなものを打ち立てるべく、引き続き日々の研鑽に打ち込まなければならない。このブログを読んでくださっている方々の三月が、心穏かで実り豊かなものであらんことを!