イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現実の圧倒的な力に抗しつつ、哲学の問いを問う

 
 前回に論じた根源的信とは、それによってたとえば「わたしは今、この部屋にいる」のような最も身近な認識も可能になるといったような、私たちの生を根底から支える信念にほかならない。
 
 
 このような信はほとんど意識されないままに働き続けているものであって、この信の妥当性を疑いうるのは、わたしが懐疑している間だけである。すでに述べたように、生きることは根元的信に基づいてのみ可能になるのだから、この信を停止させることはあくまでも、一時的で不完全なものにとどまらざるをえないことだろう。
 
 
 たとえば、わたしがまさに今この部屋で「いま体験しているすべてのことが悪霊に欺かれているか、あるいは夢であるとしたらどうか」と懐疑を遂行している最中であるとしても、窓の外で大きな音がするなどといったことがあれば、わたしは自分でもほとんど気づかないうちに窓の方へ向かって行って、何があったのかを見ようとしてしまうに違いない。懐疑することはあくまでも生の内部における部分的な行為にとどまるのであって、おそらくは、この生そのもののを支えている信を完全に無効化することまではできない。少なくとも、そのように見えることは確かである。
 
 
 それにも関わらず、わたしには省察する一人の人間として、次のような問いを立てることが可能であると言えるのではないか。
 
 
 問い:
 根元的信は、本当に妥当しているのか?そして、そうであるとすれば、その根拠は「疑いようのない現実であると思われるものが、わたしの意識に与えられている」という事実以外のどこにあるのか?
 
 
 別の言い方をするならば、この問いは、「わたしの生が悪霊による欺きや夢ではなく、現実の生であると言える根拠はどこにあるのか」となるだろう。このような問いは、哲学の世界の外においては正気を逸したものであるとすら思われるかもしれないけれども、二千年に及ぶ懐疑主義の伝統を持つ哲学的探求の枠組においては、少なくともその意味するところは理解してもらうことができるはずである。
 
 
 
根源的信 悪霊 フッサール ハイデッガー レヴィナス 現象学的還元 デカルト的懐疑
 
 
 
 すでに一度簡潔に触れたことではあるが、フッサールハイデッガー、それにレヴィナスといった前世紀ヨーロッパの哲学者たちは、このような問いの立て方には基本的に冷淡であって、彼らには、上のような問題設定そのものを共有してもらうことのできない可能性も決して低くはない。たとえば、フッサールの「現象学的還元」は、今のこの論点に極めて密接したところで行われるものではあるが、悪霊による欺きや夢などの、意識の所与が根底から転覆されてしまう可能性を度外視したところに成り立つものである。フッサール自身もそう指摘しているように、現象学的還元とはデカルト的懐疑に極めて近いところで、しかし、この懐疑からは決定的な一点において異なった地点において成立する操作なのである。
 
 
 現実の、あるいは現実と思われるものの持つ圧倒的な力については、否定すべくもない。上に挙げた三人の哲学者たちの場合のように、現実が与えられるという事実をどこまでも深く受け止めていって、その与えられ方そのものの方を思索しぬいてゆくという方向の探求が哲学には必要であることもまた、間違いのないところであろう。
 
 
 しかし、現実が私たちに今のこの瞬間においても刻々と与えられ続けているとして、それを「現実」と呼ぶことができるのはなぜなのか、私たちは果たして本当に「現実」なるもののうちで生きているのだろうかと問うことも、哲学の欠かすことのできない務めであると言えるのではないか。しかし、このように「現実離れした」問いを問うことの必然性は、どこにあると言えるのだろう。私たちはこの問いを問うにあたって、問うことの必然性について、さらに掘り下げて考えてみなければならない。