イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「究極のところでは、この問いを問うことだけが……。」:哲学はこの問いについて、何をなしうるか

 
 現存在、すなわち人間であるところのわたしには、次の二つの実存の可能性が与えられている。
 
 
 ① わたしは、さしあたり大抵は〈ひと〉として、平均的なあり方を気づかうことのうちで実存している。わたしは〈ひと〉が楽しむように物事を楽しみ、〈ひと〉が注目する話題に注目し、〈ひと〉が気にする物事を気にしている、等々である。
 
 
 このことは、わたし自身が自覚的に行うといったような類の出来事として起こるのではない。つまり、わたしが明示的に「わたしはこれから、〈ひと〉の思惑を気づかうことにしよう」と思うようなことは日常においてはほとんど起こらないのであって、むしろ、わたしは自分でも気づかないうちに、常にすでに〈ひと〉の平均的なあり方を気づかってしまっている自分自身を見出すのである。ハイデッガーが、〈ひと〉こそは「最も実在的な存在者 ensr realissimum」であると主張するのは、この意味においてであると理解されなければならない。
 
 
 ② しかし、わたしには、それとは別の実存を生きる可能性も与えられている。それこそが、誰でもない〈ひと〉としての自己を生きるのではなく、本来的な自己そのものを生きる可能性にほかならない。
 
 
 この可能性は、必ずしも世の中で目立ったり、周囲から特別な人間として見られたりするような生き方を意味するわけではないだろう。しかし、この可能性こそは、他の誰でもない一人の人間としての、わたし自身の最も固有な存在可能を指し示すものであり、真に自己と呼びうるような自己への跳躍を実現するものである。このような可能性を掴みとる人は、もはや自分自身の生き方に迷ったりすることはないだろう。その人は、「〈ひと〉がどう言おうと、思おうと、わたしはわたし自身の道を行くのだ」と決意してしまっているのであって、これこそが、『存在と時間』が本来的な実存と呼ぶものにほかならない。
 
 
 
ハイデッガー 存在と時間 哲学 実存
 
 
 
 一つの哲学が哲学である限り、必ず向き合わなければならないところの問いが存在する。
 
 
 問い:
 他の誰でもない、一人の人間としてこの生を生きているところのわたしは、いかにして生きるべきか?
 
 
 〈ひと〉は言うかもしれない。本当の自分なんて、そんな、あるのかないのか分からないようなものを探していたって仕方ないではないか。虹なんて追いかけても意味がないと思う人々もいれば、哲学などは何の役にも立たないと思っている人々もいる。世の中には、実にさまざまな考え方をする人がいるものである。
 
 
 その一方で、人間には、次のように言わずにはいられない時もある。ああ、わたしは一体、どうやって生きていったらよいのだろう。あるいは、僕は確かに周りから見たら惨めかもしれん、ただひたすら負けまくってるだけに見えるかもしれんね。でも、これだけは言わせてもらうが、僕は絶対に、最後までやめるつもりはないのだ。失敗も挫折も、途中で手にした忘れられない思い出も含めて、丸ごと全部がこの僕の人生なのだ、ちくしょう、生きてるってすばらしいなあ、等々。こうした言葉が口をついて出る時に問題となっている問いこそが、実存の問いなのである。つまりは、究極のところではこの問いを問うことだけが問題であるような問いであり、人がいかに情熱のない時代や場所に生きているとしても、常に最大限の情熱をもって問い続けるに値する問いにほかならない。
 
 
 この実存の問いなるものは、その形式においては全ての人にとって同一であるが、実質においては問う人ごとに内実が異なってくるという特徴を持っている。すなわち、「わたしはいかに生きるべきか」は万人に向けられた唯一の問いとして問われるのだが、その答えはこの問いを問う各人によって、それこそ各人の実存そのものをもって答えられるほかないのである。哲学はこの問いの構造を浮き彫りにし、明確なものにすることはできるが、その問いに前もって答えることはできない。ハイデッガーの用語を用いて表現するならば、哲学の企ては実存論的な投企にとどまるものなのであって、実存的な投企そのものの内実はあくまでも、一人一人の人間に委ねられていると言うことができるだろう。